ああ、いきなり品位が下がってしまった‥‥。きっと井川耕一郎は怒ってるに違いない。だからちんぽネタなど振るなと言ったんだと。そう言えば、井川耕一郎のマンションをネプ投げで破壊したのも浦井崇だ‥‥。
浦井ちんぽ問題とは、新谷尚之が言い出したのだが、「犯罪の支配」の頁(「ドクトル松村のお筆先」の松村の顔をクリック!)に写っているソドムの顔が宙に浮いたちんぽに見えるという、本当にどうでもいい話だ。ちなみに僕にはどうしてもちんぽには見えないが、新谷と氏原にはそう見えるらしい。しかし僕なりにある感慨はあるのだ。これまで様々な人に似ていると言われてきた浦井崇だが、とうとうちんぽかと‥‥。何のなぐさめにもならないと思うが、かのショーン・コネリーは、ちんぽに似てるというもの凄い理由で『マーニー』にキャスティングされたという。確か『ヒッチコック映画術』にそう書いてあった。それに比べればはるかにマシだ。少なくとも僕にそんな意図はなかった‥‥。
それにしても浦井崇の語る『賢者の選択』とは何なのだろうか。妻と話し合った結果、たぶんO・ヘンリーの『賢者の贈り物』のことだろうということになった。本当に大切なものは富でも権力でも知識でもないという。どうでもいい話だ‥‥。いや、しかし、森崎東は、「だからどうした」という話をいかに撮ってみせるかを『ラブ・レター』で試みたのだ。普通人がホロリとくるであろう箇所で絶対にそうはなれない自らを貫き通す工夫を編み出して。そこは見ならってほしいものだ。だいたい何で『賢者の贈り物』が『賢者の選択』という人生、勝ち組負け組みたいな、楽天の社長の顔がちらつくタイトルにすり替わるのだ。この無意識には「悪」の気配がする。やはり彼はソドムだ‥‥。
ああ、先の新谷書簡とまるでつながらない。しかし、浦井崇を導入するとはつまりつながらないということなのだ。編集の石谷が気が狂いそうになったのもそれだ‥‥。
急に語調が変わるが、浦井崇と遠山智子の『カチカチ山』はぜひやるべきだと思います。あまりにも原典に忠実に、厳正なる冷酷さをもって。そして見た人々は何でこの映画が撮られたのかさっぱり判らず呆然とするであろう。だがさっぱり判らぬままに、人々は老夫婦を惨死に追いやるタヌキの非道さや、まったく感情を表すことなく復讐を遂行するウサギの言いしれぬ不気味さを、紛れもなく見てしまったことに動揺するだろう。
熊は本当は恐ろしい動物ですね。何故恐ろしいかといえば、それは凶暴だからではなく、我々があまりにも殺しすぎたからだ。確か、村崎百郎と京極夏彦の対談にそういうことが書いてありました。北海道出身の村崎百郎の地元には、決して口にしてはならない言葉があって、それは熊にまつわることだと。その言葉を口にすると、そいつが森からやってくると。僕はその言葉が知りたくてたまらず、当時、その対談に立ち会った編集者に電話で聞いたら、彼はウッと口ごもってやはり言えないと。じゃあ、とにかくヒントをくれと食い下がったら、ある有名な出版社と同じ発音だとまで教えてくれました。「クマ」のつく出版社は二つありますが、それ以上は僕も書きたくない。このためらわせる何かはある深い後ろめたさとつながっている。だから新谷さんが何度も浦井殺しを夢想するのは、彼には殺されすぎた何物かの臭いが漂っているからだと思うのです。「熊の火」僕も読みました。あれはかなり凄いですね。
ところで、さっき岩淵先生インタビューを手伝ってくれた畠山君からメールが来て、彼は『ソドム』に対して「笑いに逃げるのはどうか」という問題提起があるようです。僕はまったく「笑いに逃げる」という発想はなかったのだけど、それはハタから見てると判りにくいだろうと。まさにこれはこの往復書簡を貫くテーマとも関わってくる問題提起ですね。先の書簡で、僕は『発狂する唇』に触れる余裕がなかったのだけれど、つまり僕があそこから試みているのは、いわば「ギャグ」(あえて笑いとは言いません)の側から得体の知れぬモノへと突き抜けるということでした。ただしこれは当時の僕の言い方だと、「観客が二度と見たくない映画にしてくれ」というトンがった注文になるので、プロデューサーの一瀬隆重としてはちょっと、待ってくれと。やはりある距離を置いて対象化できる「笑い」にしないと「商品」として流通し得ないという問題にぶち当たる。その危惧は商品を管理する側としては判るのですが、しかし何か突破口があるはずだと、今回、一番制約のない環境でやってみたのが『ソドム』だったということですね。しかし、ここは最も判りにくい部分のようなので、畠山君には猫目小僧さんに次いで、問題提起の文章を依頼しました。いずれ発表するコーナーを作ります。
小寺さんの「リー・マーヴィン・クリフ‥‥」には、本当に底が抜けたような笑いに襲われました。まあ、これは「小寺学の最も怖い話」を読んで貰わないと判らないし、その弁解をしてる最中により深刻な間違い方をする凄さというのは、小寺さん本人を知って貰わないと伝わらないようにも思えますが。あの人は存在自体が迷惑というよりは世界をおちょくってるのです、それも体を張って。轢き逃げされたのに気づかず、家に帰るとか。
名前は時として言いようもないおかしさを発動してしまうことがありますね。何度思い出しても笑いがこみ上げるのは、ヘミングウェイの孫がマーゴ・ヘミングウェイだったという事実です。日本語でしか判らない衝撃ですが‥‥。
浦井ちんぽ問題とは、新谷尚之が言い出したのだが、「犯罪の支配」の頁(「ドクトル松村のお筆先」の松村の顔をクリック!)に写っているソドムの顔が宙に浮いたちんぽに見えるという、本当にどうでもいい話だ。ちなみに僕にはどうしてもちんぽには見えないが、新谷と氏原にはそう見えるらしい。しかし僕なりにある感慨はあるのだ。これまで様々な人に似ていると言われてきた浦井崇だが、とうとうちんぽかと‥‥。何のなぐさめにもならないと思うが、かのショーン・コネリーは、ちんぽに似てるというもの凄い理由で『マーニー』にキャスティングされたという。確か『ヒッチコック映画術』にそう書いてあった。それに比べればはるかにマシだ。少なくとも僕にそんな意図はなかった‥‥。
それにしても浦井崇の語る『賢者の選択』とは何なのだろうか。妻と話し合った結果、たぶんO・ヘンリーの『賢者の贈り物』のことだろうということになった。本当に大切なものは富でも権力でも知識でもないという。どうでもいい話だ‥‥。いや、しかし、森崎東は、「だからどうした」という話をいかに撮ってみせるかを『ラブ・レター』で試みたのだ。普通人がホロリとくるであろう箇所で絶対にそうはなれない自らを貫き通す工夫を編み出して。そこは見ならってほしいものだ。だいたい何で『賢者の贈り物』が『賢者の選択』という人生、勝ち組負け組みたいな、楽天の社長の顔がちらつくタイトルにすり替わるのだ。この無意識には「悪」の気配がする。やはり彼はソドムだ‥‥。
ああ、先の新谷書簡とまるでつながらない。しかし、浦井崇を導入するとはつまりつながらないということなのだ。編集の石谷が気が狂いそうになったのもそれだ‥‥。
急に語調が変わるが、浦井崇と遠山智子の『カチカチ山』はぜひやるべきだと思います。あまりにも原典に忠実に、厳正なる冷酷さをもって。そして見た人々は何でこの映画が撮られたのかさっぱり判らず呆然とするであろう。だがさっぱり判らぬままに、人々は老夫婦を惨死に追いやるタヌキの非道さや、まったく感情を表すことなく復讐を遂行するウサギの言いしれぬ不気味さを、紛れもなく見てしまったことに動揺するだろう。
熊は本当は恐ろしい動物ですね。何故恐ろしいかといえば、それは凶暴だからではなく、我々があまりにも殺しすぎたからだ。確か、村崎百郎と京極夏彦の対談にそういうことが書いてありました。北海道出身の村崎百郎の地元には、決して口にしてはならない言葉があって、それは熊にまつわることだと。その言葉を口にすると、そいつが森からやってくると。僕はその言葉が知りたくてたまらず、当時、その対談に立ち会った編集者に電話で聞いたら、彼はウッと口ごもってやはり言えないと。じゃあ、とにかくヒントをくれと食い下がったら、ある有名な出版社と同じ発音だとまで教えてくれました。「クマ」のつく出版社は二つありますが、それ以上は僕も書きたくない。このためらわせる何かはある深い後ろめたさとつながっている。だから新谷さんが何度も浦井殺しを夢想するのは、彼には殺されすぎた何物かの臭いが漂っているからだと思うのです。「熊の火」僕も読みました。あれはかなり凄いですね。
ところで、さっき岩淵先生インタビューを手伝ってくれた畠山君からメールが来て、彼は『ソドム』に対して「笑いに逃げるのはどうか」という問題提起があるようです。僕はまったく「笑いに逃げる」という発想はなかったのだけど、それはハタから見てると判りにくいだろうと。まさにこれはこの往復書簡を貫くテーマとも関わってくる問題提起ですね。先の書簡で、僕は『発狂する唇』に触れる余裕がなかったのだけれど、つまり僕があそこから試みているのは、いわば「ギャグ」(あえて笑いとは言いません)の側から得体の知れぬモノへと突き抜けるということでした。ただしこれは当時の僕の言い方だと、「観客が二度と見たくない映画にしてくれ」というトンがった注文になるので、プロデューサーの一瀬隆重としてはちょっと、待ってくれと。やはりある距離を置いて対象化できる「笑い」にしないと「商品」として流通し得ないという問題にぶち当たる。その危惧は商品を管理する側としては判るのですが、しかし何か突破口があるはずだと、今回、一番制約のない環境でやってみたのが『ソドム』だったということですね。しかし、ここは最も判りにくい部分のようなので、畠山君には猫目小僧さんに次いで、問題提起の文章を依頼しました。いずれ発表するコーナーを作ります。
小寺さんの「リー・マーヴィン・クリフ‥‥」には、本当に底が抜けたような笑いに襲われました。まあ、これは「小寺学の最も怖い話」を読んで貰わないと判らないし、その弁解をしてる最中により深刻な間違い方をする凄さというのは、小寺さん本人を知って貰わないと伝わらないようにも思えますが。あの人は存在自体が迷惑というよりは世界をおちょくってるのです、それも体を張って。轢き逃げされたのに気づかず、家に帰るとか。
名前は時として言いようもないおかしさを発動してしまうことがありますね。何度思い出しても笑いがこみ上げるのは、ヘミングウェイの孫がマーゴ・ヘミングウェイだったという事実です。日本語でしか判らない衝撃ですが‥‥。