ああ、やっとチャプターを書き終えました。この際、大げさに言わせて貰うと、『史記』を書き終えたような気分だ‥‥。つまり本紀(チャプター)と列伝(キャラクター)の複雑な絡まり合いを。しかし、頭が混乱して万田さんについて書くのを忘れた。あとで書き足さねば‥‥。「みんな異常だと言ってます」と昨日、浦井から言われました。
昨日は岩淵達治先生インタビュー、ごくろうさまでした。しょっぱなから岩淵さんに「見るべき程の事は見つ」って言われて、勝負あったというか、それを言われちゃったら、もう何も言えなくなる。あれは『平家物語』の壇ノ浦の合戦で平知盛が入水するときの台詞なのです。さすがはあの世から監視してる人だ‥‥。まあ、今日、母親に電話したら、自分も同じ心境だと。「もうどうでもよくなった人はみんなそう言うのよ」って言ってましたが。でも、よく考えたら、母親は岩淵さんと似たような体験をしている。で、それを子供の頃に聞かされた僕は明らかにその影響を受けている‥‥。
で、『インフェルノ・蹂躙』ですけど(今度アテネ・フランセでの上映が決まりましたが)、喰われた者が喰った者を喰い返す、という論理が貫かれてないとダメなんです。犬が代行するということで抑えてますが。これはどうも僕の中の妄執みたいなもので、昔、黒沢さん監督で『水虎』という巨大な人喰い亀が襲ってくる『ジョーズ』みたいなシナリオを書いたときも、最初の構想は、人喰い亀を退治しただけじゃダメなんだと。その亀を村人総出で鍋にして、喰い尽くして、ウンコになるまで見せてやっとエンド・マークが出せるんだと。これ、そのままやると、パゾリーニみたいになるんでさすがにヤバかったでしょうけど。ウンコを撮るからじゃなくて、何というか野生の儀式をナマで撮ってるような感じになったでしょうから。
最近、熊が暴れてますけど、プレ・ソドムならぬウル・ソドムの段階で、フィルムセンターで『白老アイヌ』という記録映画を新谷さんと見て、新谷さんは丸太で熊を扼殺する殺し方にえらく感動して、浦井崇はこうやって殺そうとか話してましたね。僕も浦井のダラリと垂れた首がまざまざと浮かんで、うわ、それはパゾリーニだと。『ソドムの市』じゃなくて、『アポロンの地獄』だったか『メディア』だったかにそういう野生の儀式の場面があるんです。で、殺された浦井崇はあの世で岩淵老人から現世を監視する映像を見せられると。そこまで考えたんだけど、話が何重にも入り組んでくるんで、結局入れられませんでした。で、テレビで見ましたけど、今も熊はああやって殺すんですね。
新谷さんが言う『タイムボカン』のギャグ、よく判ります。見てはいないんだけど、妻からエッセンスは聞きました。僕もこういうギャグ、好きでたまらないわけです。で、ここでちょっと検討がいるなと思うのは、「恐怖が笑いに転化して良い」と指摘されてる部分ですね。僕は笑いに転化しちゃイカンと思ってるんです。これまた妄執のようなものですが、恐怖は恐怖だと。『悪魔のいけにえ』を見た若い人たちが「怖すぎて笑ってしまうんです」とよく僕に言うんですが、それが彼らなりにあの映画のストレートな怖さを受け止めた表現なんだということは判りつつ、僕はムッとする。80年代のスプラッター・ブームの頃から客席で笑いが起こるのがどうにも不愉快だったんですね。僕は映画であれ、実人生であれ、怖すぎて笑ったという経験は一度もない。「笑う」というのは、何かそこで「対象化」がいったんなされているような気がして仕方がない。つまりある知的な操作があるということで、いや、笑うとか怖がるとかいうのはもっと問答無用の体験だろうと。
そのせいもあってか、僕は「笑う」という言葉をあまり使いませんね。「ギャグ」という。「ギャグ」と「冗談」を分けて使っていて、「冗談」というのは生きる上での潤滑油としての世知であると、しかし「ギャグ」は世界を根本からバカにする態度そのものだと。だから「ギャグ」にあっては「笑う」ということは必ずしも要件ではない。僕が『稲妻ルーシー』のシナリオを読んだとき、「これは観客が笑うとか笑わないとかそういうことはどうでもいい映画なんだ。みんな凍りつけばいいんだ」と言ったのはそういう考えがベースにあるからです。西山さんはもっと別の考えがあったと思うけど。
もの凄く悲惨な光景を眼にしたとき、僕は思わず笑ってしまうことがあります。曙・サップ戦で、リング下で必死な表情で見つめる曙夫人を見たとき、笑わずにはいられなかった。それで浦井からヒドイ人間呼ばわりされるんですが、僕は決してそこで残酷な歓びを覚えているわけでもないし、また怖いから笑ったわけでもない。ただ本当に世界がどうでもいいような衝動が襲ってきた。それが僕にとっての「ギャグ」の感覚です。そしてそれは必ずしも笑いを伴うものではなく、笑う、笑わない以前に、厳然と「ギャグ」なるものがある‥‥。笑いの表情とは恐怖の表情だという研究もあるようだから、両者が密接に結びついていることは間違いないでしょうね。ただ「恐怖が笑いに転化する」という言葉の中には、ある知的な操作を許してしまう罠が潜んでいるように思えるのです。
かつて悲劇・喜劇と呼ばれていたものが、今や恐怖と笑いと呼ばれる。ホラーが悲劇というとてつもないジャンルを代替しつつあるような、ひょっとしたら我々はトンでもない事態に遭遇しつつあるのか‥‥、そんな怖い予感すらしてきます。
松村博士の写真は僕なんです。僕はよくあんな風にどこを見てるか判らない写真を撮られるのです。松村博士の写真もきっと医学雑誌とかに載っていたのですよ。「僕」をアリバイにしたということがはたしてどうだったのか、よく判らないんですが、つまり僕は松村博士に憑依したかったのです‥‥。
昨日は岩淵達治先生インタビュー、ごくろうさまでした。しょっぱなから岩淵さんに「見るべき程の事は見つ」って言われて、勝負あったというか、それを言われちゃったら、もう何も言えなくなる。あれは『平家物語』の壇ノ浦の合戦で平知盛が入水するときの台詞なのです。さすがはあの世から監視してる人だ‥‥。まあ、今日、母親に電話したら、自分も同じ心境だと。「もうどうでもよくなった人はみんなそう言うのよ」って言ってましたが。でも、よく考えたら、母親は岩淵さんと似たような体験をしている。で、それを子供の頃に聞かされた僕は明らかにその影響を受けている‥‥。
で、『インフェルノ・蹂躙』ですけど(今度アテネ・フランセでの上映が決まりましたが)、喰われた者が喰った者を喰い返す、という論理が貫かれてないとダメなんです。犬が代行するということで抑えてますが。これはどうも僕の中の妄執みたいなもので、昔、黒沢さん監督で『水虎』という巨大な人喰い亀が襲ってくる『ジョーズ』みたいなシナリオを書いたときも、最初の構想は、人喰い亀を退治しただけじゃダメなんだと。その亀を村人総出で鍋にして、喰い尽くして、ウンコになるまで見せてやっとエンド・マークが出せるんだと。これ、そのままやると、パゾリーニみたいになるんでさすがにヤバかったでしょうけど。ウンコを撮るからじゃなくて、何というか野生の儀式をナマで撮ってるような感じになったでしょうから。
最近、熊が暴れてますけど、プレ・ソドムならぬウル・ソドムの段階で、フィルムセンターで『白老アイヌ』という記録映画を新谷さんと見て、新谷さんは丸太で熊を扼殺する殺し方にえらく感動して、浦井崇はこうやって殺そうとか話してましたね。僕も浦井のダラリと垂れた首がまざまざと浮かんで、うわ、それはパゾリーニだと。『ソドムの市』じゃなくて、『アポロンの地獄』だったか『メディア』だったかにそういう野生の儀式の場面があるんです。で、殺された浦井崇はあの世で岩淵老人から現世を監視する映像を見せられると。そこまで考えたんだけど、話が何重にも入り組んでくるんで、結局入れられませんでした。で、テレビで見ましたけど、今も熊はああやって殺すんですね。
新谷さんが言う『タイムボカン』のギャグ、よく判ります。見てはいないんだけど、妻からエッセンスは聞きました。僕もこういうギャグ、好きでたまらないわけです。で、ここでちょっと検討がいるなと思うのは、「恐怖が笑いに転化して良い」と指摘されてる部分ですね。僕は笑いに転化しちゃイカンと思ってるんです。これまた妄執のようなものですが、恐怖は恐怖だと。『悪魔のいけにえ』を見た若い人たちが「怖すぎて笑ってしまうんです」とよく僕に言うんですが、それが彼らなりにあの映画のストレートな怖さを受け止めた表現なんだということは判りつつ、僕はムッとする。80年代のスプラッター・ブームの頃から客席で笑いが起こるのがどうにも不愉快だったんですね。僕は映画であれ、実人生であれ、怖すぎて笑ったという経験は一度もない。「笑う」というのは、何かそこで「対象化」がいったんなされているような気がして仕方がない。つまりある知的な操作があるということで、いや、笑うとか怖がるとかいうのはもっと問答無用の体験だろうと。
そのせいもあってか、僕は「笑う」という言葉をあまり使いませんね。「ギャグ」という。「ギャグ」と「冗談」を分けて使っていて、「冗談」というのは生きる上での潤滑油としての世知であると、しかし「ギャグ」は世界を根本からバカにする態度そのものだと。だから「ギャグ」にあっては「笑う」ということは必ずしも要件ではない。僕が『稲妻ルーシー』のシナリオを読んだとき、「これは観客が笑うとか笑わないとかそういうことはどうでもいい映画なんだ。みんな凍りつけばいいんだ」と言ったのはそういう考えがベースにあるからです。西山さんはもっと別の考えがあったと思うけど。
もの凄く悲惨な光景を眼にしたとき、僕は思わず笑ってしまうことがあります。曙・サップ戦で、リング下で必死な表情で見つめる曙夫人を見たとき、笑わずにはいられなかった。それで浦井からヒドイ人間呼ばわりされるんですが、僕は決してそこで残酷な歓びを覚えているわけでもないし、また怖いから笑ったわけでもない。ただ本当に世界がどうでもいいような衝動が襲ってきた。それが僕にとっての「ギャグ」の感覚です。そしてそれは必ずしも笑いを伴うものではなく、笑う、笑わない以前に、厳然と「ギャグ」なるものがある‥‥。笑いの表情とは恐怖の表情だという研究もあるようだから、両者が密接に結びついていることは間違いないでしょうね。ただ「恐怖が笑いに転化する」という言葉の中には、ある知的な操作を許してしまう罠が潜んでいるように思えるのです。
かつて悲劇・喜劇と呼ばれていたものが、今や恐怖と笑いと呼ばれる。ホラーが悲劇というとてつもないジャンルを代替しつつあるような、ひょっとしたら我々はトンでもない事態に遭遇しつつあるのか‥‥、そんな怖い予感すらしてきます。
松村博士の写真は僕なんです。僕はよくあんな風にどこを見てるか判らない写真を撮られるのです。松村博士の写真もきっと医学雑誌とかに載っていたのですよ。「僕」をアリバイにしたということがはたしてどうだったのか、よく判らないんですが、つまり僕は松村博士に憑依したかったのです‥‥。