恐怖と笑い (新谷)_往復書簡_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch

■ 恐怖と笑い (新谷)

 高橋さんに感じるのは、僕とベクトルが逆だということです。高橋さんは恐怖に引き寄せられ、僕は笑いに引き寄せられる。今回の『ソドム』で高橋さんが感じたジョン・フォード的「解放」は小集団の持つ、無政府主義的楽園の匂いなのかもしれません。ジョン・フォードが無政府主義者だなんて言う気はありませんが、アメリカ人の(特に西部劇の中に見られる)独立心や、個人の尊厳は、一人一国的なアナーキズムとも言えるのでしょう。そういえば機嫌のいい時、ジョン・フォードは自らを「喜劇映画の監督」と呼んでいたそうです(ということは機嫌の悪い時は「恐怖映画の監督」だったのか...)。
 まあそれは置いといて、『インフェルノ・蹂躙』(1997 監督・北川篤也 脚本・高橋洋)で美術を手伝った時。試写を観た僕は驚きました。「クライマックスが変わっている!」 最後、由良さん扮する殺人鬼が、監禁していた女に逃げられ、飼っているドーベルマンの檻を開け「食え!食え!」とけしかける。しかし、普段から飼い主にいじめられてた犬達は、逆に飼い主である由良よしこに襲いかかり、食い殺す...。 と僕は思い込んでたのですが、映画はその逆。
 逃げた女の方が檻を開け「食え!食え!」と由良さんにけしかける。犬達は襲いかかり、あわれ由良さんは...。 「あれ?? 逆になってる。高橋さんこれで良いの?」「え、元々こうだけど」「ウッソー!」 シナリオを読み直したら、僕の勘違いでした。何度もシナリオ読んでたのに、根本的な所を勘違いしてる。この勘違いの仕方は、明らかに「笑い」のベクトルです。自分で放った犬に、自分が食われる。これって『タイムボカン』のマージョ様のパターンですね(高橋さん分かんないでしょ、奥さんに聞いて下さい)。
 高橋さんは、恐怖が笑いに転化しても良い、というスタイルでホラーを書いてると思うんです。で、僕はギャグのつもりでマンガを描いて、編集さんに「怖い」と言われてボツ食らう訳です。よく言われる事ですが、恐怖と笑いはコインの裏と表、目指す所は同じはずで、それは固定観念の破壊です。
 イチローは確かにすごいけど、ゴジラ松井のホームランの方が観たい。ゴロを打って走り込むよりも、ホームランでゲームが破壊される瞬間が観たい。そんな会話を、以前しましたよね(東海林さだおは、ゲームを麻痺させるから、ホームランを廃止しろと言ってます)。
でも、破壊した後どこに行くのか。『ソドム』はちゃんと帰るべき所があったと思うんです。ラストはああなりますけど(まだ秘密ですね)破壊しっぱなしではない。やはり高橋さん的に収束したな、という感はあります。僕としては、もっともっとぶっ壊れた物が観たいのですが...。ホント、今でもソドム城はヤカンで作りたかったと思ってます。
 
 高橋さんは今回「恐怖」というより「悪」を探求しようとしました。しかし、その「悪」とは「業」であって、それは浦井的・存在自体が迷惑、という底抜けな「混沌」で、それは元々笑いを内包しているのです。
 ギャグ映画として作ったから、自然に笑いが出るのではなく、また恐怖をつきつめたあげく、笑いという症状が出るのでもない。「混沌」という物を描こうとする事は「混沌」に飲み込まれる事だから、もう笑うしかないわけです(だから僕は、ラストで全員がゲラゲラ笑いながら***合うべきだ、と思ったのです)それは可笑しいから笑う、というのではないですよね。
 写真を使ったシーン、僕はギャグだと思ってません。とてもスムーズに観れてしまう。それはなんでもありの「混沌」映画だからでしょう。浦井君達が、子供時代を演じるシーンが不自然でなかったのも、同じ理由です。そこで笑いが出るとしたら、やはり「混沌」に触れた人間の純粋な反応、とでも言うしかないのでしょう。ちょっと坂口安吾っぽくなったかな。
                  
 『ソドム』が叙事的であったという事。それはやはり、サイレント的映画作りを目指したという事でもあるのでしょう。目の前で「事」が起こり続ける、「事」に引っ張られて映画が成立する。『ソドム』のキャラクター達は、キャラクターというより現象に近かったのだろうと思います。それはやはりアテ書きの勝利だと思うんです。なぜなら、人は「現象」だから...。
 長々書いてしまいました、あっそうそう、昨日の電話で(これだけ往復書簡書いてて、そのうえ長電話してる我々って...いったい何なんでしょう?)ドクトル松村の新聞写真の話をしましたが、僕があの写真に疑問を持ってるのは、あの写真にはアリバイがないからなのです。写真とは何かのために撮られるものです。家族旅行の写真だったり、お見合い写真だったり、免許の証明写真だったり。しかし、あの写真は、目的のない写真です。高橋さんの言う「何でもない写真」が、犯罪記事の中にある事で忌まわしく見える、という理屈は分かるのですが、あの写真は「何でもない写真」として撮られてしまった写真の抜け殻なんです。本当は飲み会の写真でも、証明写真でも、松村手持ちの物で良かったんじゃないか、と思うのです。 ああ、また長くなってしまった、往復書簡、こうなると思ってたんだ...。