そうでした、最初は文通でした。あの頃は新谷さんと文通して、小中(千昭)さんとも文通して、かつ塩田さんの長電話の相手をしつつ、仕事もするという、何というエネルギーだったんでしょう。
プロレタリア芸術運動のことは、きっとまたこの話題に戻りますから、おいおい触れてゆくとして、サイレント的表現とトーキーとの引っ張り合いですか。うん、これは今日、人々が了解する「リアル」という問題とも関わってきますよね。まあ、僕自身の中では、よく話すようにもともと映画の中には時間が流れていないという感覚でずっときてるし、だから音の扱い方も、一番自分がしっくりくるのは1930年代のサイレントからトーキーへの移行期の映画(それこそ『怪人マブゼ博士』とか『夜半歌声』)だったんで、自然にそのバイオリズムで発想してましたね。このバイオリズムというのは、やはり初期手塚治虫とかのコマ割の仕方、夏目房之介の有名な言葉でいえば「1コマあたりの物語滞空時間」が長い、といったことが血や肉になっているんだと思います。
ただ、世間が了解している「リアル」とどう橋渡ししてゆくか、これは「商品」という大問題も絡んでくるんで、かなり自分の中でも引っ張り合いがあったなと。
たとえば「幽霊」の表現です。今回も幽霊は出てくるんだけど、今まで自分たちがやってきた「心霊実話テイスト」の「リアル」な幽霊表現はやりませんでしたね。むしろ、鈴木清順の『ピストル・オペラ』。あれに僕と島田(元)さんは幽霊役のエキストラで出てるんですが、現場でボォーッと立ちながら、ああ、こういうやり方あるよなあと。要するに清順さんにとって映画に出ている人は全部幽霊なんだから、ただそのまんま撮る。符帳としての白塗りや死装束はあるとして。この「符帳」という言葉を「記号」とか「見立て」とか意味作用のレベルで言ってしまうと、何か肝心のものが欠落した気がする。何というか「物質」として撮るということなんですね、清順さんは。『ピストルオペラ』のロケでも雪が降ってきたんで、みんな雪撮りましょうって言うんだけど、「本物の雪なんか撮りたくない!」って、紙吹雪じゃないといやなんでしょうね。それが物質だと。今回我々も紙吹雪やりましたけど。
で、幽霊なんですが、たとえばガラスに人物の写真をペタッと貼ると。これは黒沢さんが『降霊』でやった幽霊表現で、立体のはずの人間が平面に見えるという気味の悪さですね。いわゆる霊感の強い人々はこの表現にバリバリに反応したそうなんですけど。そうなんだ、幽霊は平面に見えるんだと。ところが『ソドム』はこの表現を思い切りギャグでやってしまった‥‥。決してパロディではなく、またチャチさを笑ってくださいということでもなく、いや、これ貼ってあるの写真ですっていう身も蓋もない物質として見せたかった。
ただ、このギャグというのが、今回は物質の忌まわしさにいくというよりは、むしろ「解放」や「自由」といった大らかさの方にいった気が僕はしてます。ここが『アメリカ刑事』とは違うところで、あれは何だかんだで仕上がってみたら、やっぱり陰鬱なものになっていた。ああ、結局、こういうものが出ちゃうんだなと思った。で、今回もそうなるかなと思っていたら、どんどん解放されてゆくわけです。これは僕一人での力では到底出来ない、やはり『ソドム』の現場独特の集団の力が働いたからなんだろうと思います。
しかし、ここで戸惑う人たちもいると思うんです。僕自身も戸惑ったわけで。映画芸術のインタビューでは、今までの僕の映画にあった「穴」感が希薄だという指摘を受けました。「穴」というのはそもそも僕が言い出したことで、人間の視覚と現実の間にはいわゆる「象徴秩序」という安全弁のようなフィルターが一枚入っていると。現実をそのままモロに見ないですむように。ただ時々、このフィルターに裂け目というか「穴」が開いて、そこから禍々しい「物質」が見えてしまうと。だから「早わかり?」で恐水症患者が見るように水を撮るというのはまさにこれで、僕は10代の終わりにそういう風にモノが見えてしまったときがあるんです。いわゆる霊的体験ではなくて、そうとう精神的に追いつめられた結果だったんですけど。
話を整理すると、物質のはらむ「怖さ」か、「自由」「解放」へと向かう力か、というところで僕は引っ張り合いを体験したわけで、前者は言ってみれば従来の僕、「ラング」的であり、世間が了解しやすい「リアル」へと回路がつながるものだったかも知れないけど、今回は「集団性」(それこそプロレタリア芸術運動的な?)が生み出す力というのをもの凄く信じた。で、何かこう、これもの凄い錯覚かも知れないんですけど、ジョン・フォードとかですね、僕にはおよそ無縁だろうと思っていた世界が開けてきたような‥‥、気もする。西山さんが見た後の感想で、とにかくすがすがしいと、それはこの映画が「叙事性」をはらんでいるからじゃないかと言ってくれたのが、僕は一番嬉しかったですね。 でも、フォードって怖いときは怖い‥‥。だから簡単に対立項で捉えられるものではない。「物質」は「物質」でやはり探求せねば、という、これは今後の課題ですね。
小寺飲み会のビデオって、塩田さんがウヒョウヒョッって恋愛自慢をしてるのが写ってるんでしたっけ? それを流すのは、ネガティブ・キャンペーンにしかならないような‥‥。しかも何のためのネガティブなのか判らないという‥‥。
プロレタリア芸術運動のことは、きっとまたこの話題に戻りますから、おいおい触れてゆくとして、サイレント的表現とトーキーとの引っ張り合いですか。うん、これは今日、人々が了解する「リアル」という問題とも関わってきますよね。まあ、僕自身の中では、よく話すようにもともと映画の中には時間が流れていないという感覚でずっときてるし、だから音の扱い方も、一番自分がしっくりくるのは1930年代のサイレントからトーキーへの移行期の映画(それこそ『怪人マブゼ博士』とか『夜半歌声』)だったんで、自然にそのバイオリズムで発想してましたね。このバイオリズムというのは、やはり初期手塚治虫とかのコマ割の仕方、夏目房之介の有名な言葉でいえば「1コマあたりの物語滞空時間」が長い、といったことが血や肉になっているんだと思います。
ただ、世間が了解している「リアル」とどう橋渡ししてゆくか、これは「商品」という大問題も絡んでくるんで、かなり自分の中でも引っ張り合いがあったなと。
たとえば「幽霊」の表現です。今回も幽霊は出てくるんだけど、今まで自分たちがやってきた「心霊実話テイスト」の「リアル」な幽霊表現はやりませんでしたね。むしろ、鈴木清順の『ピストル・オペラ』。あれに僕と島田(元)さんは幽霊役のエキストラで出てるんですが、現場でボォーッと立ちながら、ああ、こういうやり方あるよなあと。要するに清順さんにとって映画に出ている人は全部幽霊なんだから、ただそのまんま撮る。符帳としての白塗りや死装束はあるとして。この「符帳」という言葉を「記号」とか「見立て」とか意味作用のレベルで言ってしまうと、何か肝心のものが欠落した気がする。何というか「物質」として撮るということなんですね、清順さんは。『ピストルオペラ』のロケでも雪が降ってきたんで、みんな雪撮りましょうって言うんだけど、「本物の雪なんか撮りたくない!」って、紙吹雪じゃないといやなんでしょうね。それが物質だと。今回我々も紙吹雪やりましたけど。
で、幽霊なんですが、たとえばガラスに人物の写真をペタッと貼ると。これは黒沢さんが『降霊』でやった幽霊表現で、立体のはずの人間が平面に見えるという気味の悪さですね。いわゆる霊感の強い人々はこの表現にバリバリに反応したそうなんですけど。そうなんだ、幽霊は平面に見えるんだと。ところが『ソドム』はこの表現を思い切りギャグでやってしまった‥‥。決してパロディではなく、またチャチさを笑ってくださいということでもなく、いや、これ貼ってあるの写真ですっていう身も蓋もない物質として見せたかった。
ただ、このギャグというのが、今回は物質の忌まわしさにいくというよりは、むしろ「解放」や「自由」といった大らかさの方にいった気が僕はしてます。ここが『アメリカ刑事』とは違うところで、あれは何だかんだで仕上がってみたら、やっぱり陰鬱なものになっていた。ああ、結局、こういうものが出ちゃうんだなと思った。で、今回もそうなるかなと思っていたら、どんどん解放されてゆくわけです。これは僕一人での力では到底出来ない、やはり『ソドム』の現場独特の集団の力が働いたからなんだろうと思います。
しかし、ここで戸惑う人たちもいると思うんです。僕自身も戸惑ったわけで。映画芸術のインタビューでは、今までの僕の映画にあった「穴」感が希薄だという指摘を受けました。「穴」というのはそもそも僕が言い出したことで、人間の視覚と現実の間にはいわゆる「象徴秩序」という安全弁のようなフィルターが一枚入っていると。現実をそのままモロに見ないですむように。ただ時々、このフィルターに裂け目というか「穴」が開いて、そこから禍々しい「物質」が見えてしまうと。だから「早わかり?」で恐水症患者が見るように水を撮るというのはまさにこれで、僕は10代の終わりにそういう風にモノが見えてしまったときがあるんです。いわゆる霊的体験ではなくて、そうとう精神的に追いつめられた結果だったんですけど。
話を整理すると、物質のはらむ「怖さ」か、「自由」「解放」へと向かう力か、というところで僕は引っ張り合いを体験したわけで、前者は言ってみれば従来の僕、「ラング」的であり、世間が了解しやすい「リアル」へと回路がつながるものだったかも知れないけど、今回は「集団性」(それこそプロレタリア芸術運動的な?)が生み出す力というのをもの凄く信じた。で、何かこう、これもの凄い錯覚かも知れないんですけど、ジョン・フォードとかですね、僕にはおよそ無縁だろうと思っていた世界が開けてきたような‥‥、気もする。西山さんが見た後の感想で、とにかくすがすがしいと、それはこの映画が「叙事性」をはらんでいるからじゃないかと言ってくれたのが、僕は一番嬉しかったですね。 でも、フォードって怖いときは怖い‥‥。だから簡単に対立項で捉えられるものではない。「物質」は「物質」でやはり探求せねば、という、これは今後の課題ですね。
小寺飲み会のビデオって、塩田さんがウヒョウヒョッって恋愛自慢をしてるのが写ってるんでしたっけ? それを流すのは、ネガティブ・キャンペーンにしかならないような‥‥。しかも何のためのネガティブなのか判らないという‥‥。