宇宙の構造(新谷)_往復書簡_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch

■ 宇宙の構造(新谷)

読者の皆さん、往復書簡楽しんで頂いてますでしょうか。
この往復書簡、元々は高橋さんと僕がどんな会話をして、『ソドム』を構想して行ったか、という思い出話をする予定だったんだけど。なんだかお互いの精神分析みたいな話になって来て、あきれてる人も多いと思います。でも、二人で限界まで長話してると、最後は大抵こういう話になってお互いヘトヘトのフラフラになるんですね。そういう意味では、長電話のライブ中継みたいで良かったかもしれません。
 
 さて、今までの話をぶちこわすような事を言うんですが。実は僕は多神教ではありません。なにを今更、とあきれるかもしれないけど。いや、確かに多神教的な、なんでもありの水平軸が僕の世界観なんですが、それを多神教と言われてしまうと抜け落ちてしまう物があるんですね。
言葉というのは、モノやコトを対象化する事で成立しています。言葉にするという事は、見る側と、見られる側を分けてしまう、そこには自動的に内と外が発生する。それでは、真に多神教的な混沌を理解する事はできないんです。「多神教」という言葉は、「一神教」の概念が生まれてから出て来た物でしょう。元々、多神教の人達は自分たちが「多神教」だ、なんて概念はなかった筈だから。つまり、「多神教」という言葉を使った時点で、それは一神教的世界観に組み込まれてしまうんです。結果、真の「多神教」世界は伝わらなくなる。レヴィ・ストロースの『神話と意味』読んでたら、「未開民族」ではなく「無文字文化」と呼ぶべきだ、なんて言葉があってなるほど、かつての多神教の文化は「無文字」だからこそ成立したのかもしれません。
 中沢新一の本に書いてあった事なんですが。キリスト教の宣教師達が、アボリジニの人達に布教しようと、互いの神様の話をしていると、彼ら(アボリジニ)には高神の概念はあるんだそうです。つまり、八百万の神の中でも、特に大きな力を持った神。神様のチャンピオンがいる。「それこそ、我らのいう唯一神『ゴッド』だ」と宣教師達は言うのですが、アボリジニ達は「それは違う」と譲らなかったそうです。にいやの考える世界には突出した神はおらず、世界の総体こそ「(一神教的)神」と思っています。それはアボリジニの高神とも違うんでしょうが、キリスト教的『ゴッド』よりはずっと近い世界です。しかし、やはり僕はアボリジニとも違う。高橋さんが言う「タロイモ食べてれば良いんなら」という世界に僕は住んでいるわけじゃないんですから。バイトと生活苦で、ヒーヒー言ってんですから。
先に「多神教的混沌」と書きましたが、一神教的観方からすると、多神教にも多神教なりの秩序があるんでしょうが、にいやの思う世界は、秩序のない世界なんです。それは「混沌」であって、実は「多神教」ですらないのじゃないかと。ついでに言えば、高橋さんの「一神教」も、ホントにキリスト教的な一神教なのか、よくわからんのです。高橋さんに神との「契約」の概念なんてあるんでしょうか。
それはさておき。つまり、僕にとって『黄金バット』の世界は、純粋な混沌なんです。正義も悪もない、もしかしたら、時間の流れも無茶苦茶な、重力の法則すらいい加減な。黄金バットは「正義の味方、黄金バット!」なんて名のってますが、あのガイコツに正義感なんかあるとは思えません。本当はマリーちゃんに惚れたガイコツのストーカーというか、亡霊でしょう。あれには生きたキャラクターとしての意思も感じませんしね。
むしろ、正義の臭いがするのはナゾーの方ですね。世界征服を目指すのは、ある意味秩序を求めているわけですから。つまり、無秩序な混沌の世界に、秩序をもたらそうとするナゾーに対し、それを阻む「混沌の味方」こそが黄金バットであり、シルバーバトンなんです。先の書簡でシルバーバトンを「バランサー」と書きましたが、むしろそれは秩序を守るバランサーではなく、無秩序を守る(と言うか、あおる)バランサーなわけです(アンバランサーと言った方が良いのか)。
話がどうしてもすれ違うのは、一神教的概念の「秩序」がこちらの論理に侵入していたからではないでしょうか。
高橋さんが「なぜ比喩に行ってしまうのか」と書かれていましたが、僕は比喩で言ってるつもりもないんですね。どうも言葉がみつからないんで、地震だの台風だのと、『黄金バット』世界の「アンバランサー」を表現するためにそう言ってたんですが。むしろあれは、「バチ」という言葉が一番あうんじゃないかと。こう来ると、また「では、バチを当てる存在が...」となりそうなんですが、そうではなく、「バチ」とは、つまずいて転ぶ石ころや、足を突っ込むドブのような物なわけで。つまり、ナゾーは運が悪いんですね。ああ、またアホな書き方をしてしまった。ますます分からんようになったらごめんなさい。これで、シルバーバトンが「無秩序という名の秩序」なんて話になったら、また堂々巡りなんですが。

 そもそも高橋さんと僕は、考えてる宇宙のモデルが違うんでしょう。僕のモデルはシチューなんですね。いろんなものがドロドロ混沌に渦巻いているような。ここで誤解されたくないのは、ドロドロといっても、何もかもが高橋さんの言うように、同じになってしまう訳ではありません。煮とけてしまったらスープであって、こちらはシチューです。芋やニンジン、肉やタマネギや、もしかしたらゴキブリや、ガラスの破片や、犬の糞のような入っていてはいけないものまでも、形を保ったまま、沸騰した混沌世界に入り乱れている。しかも、そこには鍋はないのです。時間的にも空間的にも、始まりも終わりもなく、いろんなものが、それぞれの個性を持ったまま、無限の空間にゴチャゴチャとぶつかりながら存在している。そして、その内部から突然閃光が走ったり、存在しなかった物が吹き出したり、裂け目が出来てなにかが吸い込まれたり...。そんな、なんでもありな感じなんです。そもそも、「無限」には外部や内部自体がないわけですから。一神教的な「神(外部)」も発生しようがないのです。
先日高橋さんに、電話で宇宙モデルを聞いたら「『シェルタリングスカイ』なんて映画があったけど、空がシェルターになってて、その外に何者かが居る、そいつが色々我々にひどい事をしている、まあ被害妄想なのだけど」と言われたんですが、僕にはそういう外部はないんですね。でも、それが閉鎖的とは思えない。これこそ完全な開放型だと思うんですが。しかし、こんな事考えていると気が狂いそうになりますね。「無限」を考えているわけですから。もう人智を超えている。
近藤君に聞いてみたら、彼の宇宙モデルは手塚的『火の鳥』っぽく、宇宙の中に宇宙があって、また宇宙の中に宇宙があって...と入れ子状になってるそうです。僕も『火の鳥』読んで育ったわけで、そのイメージは持ってるし、それは「無限」の概念として好きなモデルなんですが。どうもそれは理知的過ぎて、奇麗過ぎる。僕はもっとグチャグチャドロドロ、不完全に広がって行く方が好みなんですね。ああ、そうだ「不完全」なんだ。
僕がイメージする宇宙は、「不完全」なんです。一神教的秩序や、無秩序という「秩序」に支配されているのでもなく、始まりも終わりもなく、いい加減な、不完全な、てきとーな世界、これが一番ピッタリな言葉かもしれない。まあ、小寺を思い浮かべてもらえば良いんですが。つまり「宇宙的無責任」。決まった。これだ。

 突き詰めて言えば、高橋さんと僕の会話は「宇宙に果てはある」「いや、無い」というもので、答えは出ないんですが。この二つの考えは、対立する物ではなく、対立すら出来ない物なんです。このくらいかなあ、言葉で言えるのは。
 で、今高橋さんの「映画の魔」の最終章を読み直してみたら、あ、なんだ、高橋さん自分で書いてるじゃん。赤塚不二夫や杉浦しげるの、未分化の混沌。
たとえば杉浦版『猿飛佐助』に「(一神教的)神」は居るのか、という事ですね。主人公の佐助は、確かに「強い!絶対に、強い!」んですが、それが「神」とは思えない。アボリジニの「高神」レベルではあるけど、それがこのマンガ世界を支配する秩序とは思えない。ドロドロと、どこまでも終わりのないマンガ宇宙。しかし、連載のページが限られているから、テキトーに終わるような。お約束で、敵の忍者が「参りました」と言うような。これはまさに『黄金バット』的な世界ではないですか。佐助はその世界の住人で、また、その世界そのものでもある(「神」と言う意味ではなく)。
うーむ。僕や小寺が、森崎東の映画を楽しめないのは、あの世界が(我々的に)いい加減じゃないからか...。宮崎駿もそうなのか...(『ハウル』はまだ観てない)。『ソドム』も、にいやはもっといい加減に作りたかったという事か...。にいやが好きなのは『ゴレンジャー』とか、テレビでぶつ切れで録った幼児番組なんかだもんなあ...。
そういえば、先日アテネで高橋さんたちが上映した、イタリアC級アクションのように、スタッフ誰もが「ビジネス」と思っていたり、「どうでも良いや」と思いながら作ってしまう(生まれてしまう)、無名性の、間口の広い、大きな作品。それを、我々は目指したいわけで。もちろん、それらはプログラムピクチャーという幸福な世界があって成立したものなんだろうけど。その行く果てに『007』はあるのかなあ、と。
高橋さんのいう「我々二人の、共通する指向は『下らなさ』だ」という言葉には共感しますね。それは、以前小寺が「リ、リーマービンクリーフ...」と口走って、高橋さんが「世界の底が抜けるように笑ってしまった」というような下らなさ。そう、世界の底が抜ける瞬間。それは「笑い」でもあろうし、「恐怖」でもあろうし。我々二人の世界モデルは違ってるけど、世界に(宇宙に)穴を開けたいというのは共通してるんでしょうね。
津山の井手さんに「地下映画のインターネットアジト、津山支部を作れ」とメール打ったら、「やりましょうやりましょう、あちこちで地盤沈下を起こしましょう」なんて返事が返って来ましたが。う?ん、そういえば高橋さんが高校時代に初めて作った8ミリ映画が、星新一の『おーい、出て来い』だったというのも意味深で。「穴」つながりですな。まあ往復書簡、こんなところで良いんじゃないでしょうか。という事で、お後がよろしいようで...。


 告知

 先日お知らせしました通り、高橋VS新谷の「往復書簡」はさらに多くの参加者を募って、もっといろいろな話題を語り合うオープン形式に生まれ変わります。管理人の瀬田さんが多忙のため、タイトルや掲載方法はこのままですが、とりあえず「新 屋根裏部屋」の常連投稿者の皆さんに加わって頂きます。今までの往復書簡から「私の神さま」話、「恐怖と笑い」話、「地下映画」のあり方、様々な話題が芽生えていると思います。それらに関しての発言でも良いですし、もちろん『ソドムの市』に関しての批評も大歓迎です。参加者それぞれが、発言したい事をどんどん書き込んで頂けばけっこうです。雑多な話題の中から、新しい地下映画を夢想し、生み出しましょう。
 今までの往復書簡のように、投稿者ごとにページを変えても良いですし、短い文章なら、先に投稿した人のページに続きとして返事を書き込んで、スレッド状にして頂いてもOKです。読みやすく、書きやすく、会話しやすいよう、各自責任を持って御投稿下さい。「新 屋根裏部屋」の常連の方々には、追ってここへの書き込み方法と、キーワードをお知らせします。

 常連投稿者の方々以外の投稿も歓迎いたします。
最初から完全自由参加にすると、混乱してしまいそうなので、「新 屋根裏部屋」常連投稿者以外の方は、申し訳ありませんが本サイトのBBS宛に御投稿下さい。こちらに転載いたします。何度か御投稿頂いて、責任もって会話に加わって頂けると判断しましたら、直接書き込めるようにキーワードお教えします。よろしくお願いいたします。

 で、いつかそのうち、タイトルやレイアウトも模様変えしますが、とりあえず「世界ソドム会議」なんてのはどうでしょう。じゃ、そーゆー事で。                 

                                  にいや