二つの体験(高橋)_往復書簡_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch

■ 二つの体験(高橋)

 そうですね、僕は新谷さんとはまるで逆の体験が二つあります。一つは高校の終わり頃、合宿に行ってですね、もう楽しくて楽しくて仕方がなかった。新谷さんが言うような、生命が全部内側から輝いて見えるというものじゃないんですけど、とにかく楽しい、全身がウキウキしてました。これっておそらくたいがいの人が高校ぐらいで味わう感じなんじゃないかしら。で、すっかりはしゃぎながら廊下を走っていたらですね(夜中だったんですけど)、ちょうど誰もいない廊下で、いきなり立ち止まらざるを得ない、妙な衝動に襲われた。別に霊感とかそういうんじゃないですよ。強制的な命令のように足が無理やり止められて、今、眼の前の光景を眼に焼き付けろと、言い渡されたような感じがしたのです。こんな経験は後にも先にもないですね。幻聴のようなものがしたわけでもなく、ただ無言の強制があってですね、その時、僕はふいにその意味が判った気がしたのです。これ以上楽しいことはもう人生で二度とないのだから、今、眼の前の光景をしっかり見ておけと、そういうことなんだと。そんなわけで、僕は薄暗い無人の廊下という何ともわびしい光景をまじまじと見つめて、暗い気持ちで部屋に戻った。もうさっきまでの溌剌らる気分は消え失せていた。そんな次第です。いまだに時々、薄暗い廊下に立ち止まっていた自分の姿を思い描いたりしますね。あれは何だったんだろうと。廊下の光景は眼に焼き付いています。
 もう一つは、高校も卒業して10代の終わり頃、これは早わかりのウンチクでもちょっと書きましたが、精神的にかなりやばくなった時があったのですね。その時、陽が暮れるとモノの形がすべて違って見えるという症状に陥った。だからまったく新谷さんと逆ですね。光が陰ってゆくにつれて、部屋の中の見慣れた家具やコップが、みるみるうちにまったく見慣れないよそよそしいモノに変容していって、自分の神経に直接突き刺さるような攻撃をしてくる。どうしようもないんで布団にくるまって、そうだ、音楽でも聴けば気が紛れるかもってラジカセのスィッチを押すと、音もヤバイということが判って、慌てて消して、とにかくひたすら早く日の出が訪れるのを待つしかない。まったく吸血鬼映画の登場人物みたいな日々でした。それで朝日が差し込んでくると、ウソのようにモノが元の形に戻ってゆくんです。試しに音楽をかけても全然平気で、僕はあっけにとれましたね。素直に太陽って有り難いもんなんだって思いましたが、それで素晴らしいというよりは、ああ、事物の本性を見たと。こいつらは陽が沈んでから、正体を現すんだと、そっちの思いの方が強かったですね。人間、恩恵よりも被害を受けた方をよく憶えているという。反復して拷問がやってくるような状態でしたからね。
 で、ごく最近、『インプラント』という映画について、確か氏原君と話してる時に、これは「夜驚症」についての映画だったんですが、僕が陥ったのもひょっとして夜驚症なんじゃないかって言ったら、氏原君が「いやあ、ユングがですねえ」ってひじょうに偏った博学の人なんですが、アフリカのエルゴン族は昼間と夜でまったく別の神を祀っているといったことを自伝か何かに書き残してるらしくて、うーん、そういえば『妖婆死棺の呪い』とかもそういう感じだったよなあと。きわめて根源的なことだったのかなと考えたりしました。子供の頃って、恐怖映画を見てると、夜になっただけで怖くて、デイ・シーンになるとしばらくセーフってホッとしましたよね。最近は映画にそういう匂いがしなくなったけど、『ヴァンパイア最後の聖戦』にはチャンとあった。
 ああ、暗い話題だ。あるいは僕には「生」に対する嫌悪、「肉」に対する嫌悪というのが何処かにあるんじゃないか。それで僕は時々、肉が食えなくなるんじゃないか‥‥。
 とにかくラングという人は環境界がいきなり攻撃してくるという感覚でモノを見ていたと思いますよ。ただ僕がキャラクターを鋳型にはめたいというのはですね、作者がキャラをコントロールしようということではないんです。ヒッチコックやラングのようなことは、やはり完璧なスタジオ・システムありきで、それは到底望んでません。僕はきっとキャメラの前で人が生き生きっていうのが信じられないんだと思います。まず生の否定があるべきだと。そこから噴出してくるものは何か、というアプローチなんだろうと。
 もう、論点を拾ってゆくだけで長くなりますね。とりあえず先の書簡への問いかけとしては、黄金バットのシルバーバトンが何故、巨大なものの象徴という比喩へといってしまうのか、そこが僕は辿れないんだと思います。写っているものは紛れもなくマッチ棒のような小さなバトンであり、映像に関しては、僕の方がはるかに見えないものを見る妄想系で、新谷さんの方がリアリストなのに、どうしてそこで比喩にいってしまうんだろうと。
 それから新谷さんがいう「超調和」ですね。その場合、すべては同じものになってしまうんじゃないだろうか。「異物」とか「他者性」と呼んでいるもの、裂け目を入れるものが介在し得なくなると、それは僕の感覚だと「完結」という風に捉えられてしまうのです。
 ところで神楽のことを考えていてふと思ったのだけど、そういえば日本の祭りって血の臭いが希薄だなあと。記紀神話には確かに血の臭いがするのに。どうなんでしょうか。
 では、このへんで。毒盛り娘の北岡さんが実は死んでなかった話はまた今度。