二十歳の頃  (新谷)_往復書簡_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch

■ 二十歳の頃  (新谷)

 僕は黄金バットのシルバーバトンが、マッチ棒のような小さな物とは思えないんですね。むしろ、巨大な敵よりも、もっと巨大なモノの象徴として見ているのです。つまり、あれは巨大な山塊でもあろうし、破壊的な落雷でもあろうし、むしろ物理の法則にのっとった現象と思うのです。高橋さん的に言う「奇跡」ではないと。巨大なロボットが、マリーちゃん達に向かって、ノッシノッシ歩いてくる時、突然地震が起こり、地割れにロボットが飲み込まれたらどうか。タイミング的に、それを奇跡という人もいるだろうけど、地割れにロボットが飲み込まれるのは当たり前の事だろうと。他者である一神教的神が、それを起こしているというよりも、僕の世界モデルでは世界のバランサーとして、我々を含む総体(これが僕の考える神なのですが)の内部に、必然としてそういう事が起こるのではないか、という事なのです。どうも言葉では説明しにくいですけど。
 いつだったか、高橋さんに『それゆけアンパンマン 幽霊船をやっつけろ』という『アンパンマン』の劇場版をすすめた事がありました。で、高橋さんには「どうも予定調和的だ...」と不評だったんですが、(本当はあれ、2?3歳向けなんですけどね)「いや、高橋さんあれは予定調和ではなく、超調和なんですよ」なんて話したこともあります。高橋さんが言う「多神教的、寿がれた、完結した世界」は、予定調和の世界かもしれないけど、僕がそこに見てるのは「寿がれないものまで寿がれている、どこまで行っても完結しないままの、開かれた超調和」の世界なんです。
 この前、電話でも話しましたが、20歳の頃、なんだか楽しくって楽しくって、毎日ハイな状態が続いていた時期がありました。その頃感じてたのは、世界の全てが命の発露だと、喧嘩や、戦争や、自殺や、事故や、地震、公害、畸形までも、幸せに完結した状態でないそんなモノやコトまで、僕はなにもかもにドキドキワクワクしたんですね。人が死んでも、飛行機が落ちても、もちろん幸福な恋人達を見ても、皮膚病でボロボロの野良犬を見ても、もう嬉しくってしょうがない。単に、躁状態だっただけかもしれませんが。世界中がいびつなまま、祝福されている(これまた、高橋さん的には、祝福を与える他者を感じるんでしょうが、そうではなく、自らの内側から、吹き出すように命という名の祝福が溢れて来る、という感じです)確信というか、喜びがあったんです。そんな異常な感覚はすぐに消えてしまいましたけど、僕はその頃の気持ちをいまだに引きずってるし、そこが自分の出発点だと思ってるんです。
 『ウルトラマン』に関しても、単に怪獣納めの舞を舞って、幸せに完結しているわけではなく、確かに怪獣はウルトラマンに虐殺されているわけで、それをも含み込んだ血だらけの畸形的祝祭の空間という事なんです。僕は『ウルトラマン』は神楽だと思っているんですが、そもそも神楽はそういう物だと思うんです。八岐大蛇退治とかね。血の臭いのする、お祭りなんです。
 昔、聞いた話なんですが、うちの方では(岡山県総社市)戦後すぐ「神楽なんて前時代的な物はやめよう」と、神楽を執り行わない時期があったんだそうです。でも、突然疫病が蔓延して「これはいかん、神様のたたりじゃ」と再開されたそうで...良い話でしょう。
 さて、そろそろ筆を置きます。今度は高橋さん、先日聞かせてもらった高校の合宿の話を書いて下さいよ。これまた、新谷と完全に真逆な体験で....。では皆さん、お楽しみに。あっ、BBSで高橋さんも書いてましたけど、もう少しこの往復書簡続けたら、ここで出たいくつかのテーマ(そこから出て来るのは、地下映画と呼ばれる物を作ったり、観たりする根元に関わる事であり、高橋、新谷の個人的な議論ではないだろうと思うんです)を、皆さんと一緒に話し合って行く形にしたいと思ってます。どういう形が良いのか、まだ思案中ですが、これもお楽しみに!