軌道修正(高橋)_往復書簡_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch

■ 軌道修正(高橋)

 先の新谷書簡の末尾でも触れられていましたが、この往復書簡、一つの書簡の中に吟味すべき論点がぎっしり詰まってるので、それいちいちを論述してゆくと、ドンドン長くなっていって、僕も新谷さんもヘトヘト、読者のみなさんもさぞ読みにくいでしょうから、もっとBBSノリで、短い書簡を頻繁にやりとりしていくスタイルに軌道修正することにしました。ということで今後は早いサイクルで更新され、これまで出た論点も一度にではなく、小分けにして吟味してゆくことにしましたので、読者のみなさま、よろしくお願いします。ある程度、論点が出つくしたら、より開かれた複数参加の形式に移行していきたいと思ってます。
 さて、僕と新谷さんはその世界のつかまえ方において、決定的に資質が違うわけですが、一方で共通点もある。その一つは僕も新谷さんも「自分探し」なんて考えたこともない、そもそもそういう概念がない、ということでしょう。もう一つの共通点は、笑いやギャグの感覚に関わってくる、徹底した「くだらなさ」への衝動の激しさです。後者についてもいずれこの書簡の中で吟味されてゆくことなるでしょう。
 で、「自分探し」など考えたこともない我々はじゃあどういう具合に世界と関わっているかというと、新谷さんは「すべてが許されている」、僕の場合は「罰せられるために生きている」と、物心についた時にはもうそういう感覚が揺るぎなくあったわけです。
 「罰せられるために」というのは、限りなくキリスト教的な原罪論めいたニュアンスに聞こえるかも知れませんが、いや、僕はキリスト教的な秩序の中に自分を位置づけているのではなく、その理不尽さに対する異議申し立てとして一神教的世界モデルを対抗軸に置いているだけなのです。そして僕はこうした闘争のスタンスこそが、モノを作るモティベーションになる。黄金バットのシルバーバトンは(つまりは神が行う暴虐は)、新谷さんは自然界の猛威と地続きに捉えているようなのですが、いや、僕の感覚だと自然界のいかなる猛威であれ、それは物理法則に従属した出来事でしかないのです。しかし何某かの法則に従うものは、神ではない。神はそもそも物理法則を変更する存在なのですから。だから巨大な敵をマッチ棒のようなシルバーバトンで「ピタリ」と止めてしまうのは、物理法則の変更なのであり、故に一神教的な出来事なのです。
 一方の多神教的世界は、僕にはどうしても万物から寿がれた、祝祭的なもの、いわば自然との合一感のようなものに見える。それはすごく幸福な状態に思えるのです。南方でタロイモだけ食って暮らしていけたらどんなに素敵だろうと夢想するような。しかし、それはどこか「完結」されたもの、閉じられ、内輪的になること、下手をすれば「独善」にいきかねないものに僕には思えます。僕はそこにどうしても垂直軸のようなもの、横へ横へと伸びてゆく大らかさをひっくり返す要素を入れたくなる。そうならないと自分のモティベーションは上がってこない。
 一神教は確かに「国家」とか「権力」と切り離せないものと思います。猫目さんとやりとりしている陰謀史観で言えば、一神教は人類を家畜化するためのおぞましい策略という極論もあるくらいで、しかしこうした妄想的極論にはそのものの本質が端的に現れ出ている側面もあるから面白いです。で、僕はですね、家畜化であれ何であれ、自分たちが作り出してしまったいわば狂気の発明によって引き裂かれている人間たちを見つめることがなによりも好きなのです。「調和」され寿がれてしまうと、どうも調子が出ない。だから、僕はナゾーやら「死ね死ね団」に魅入られるのでしょうね。負けるに決まってる戦いに挑み、そして毎回カタストロフが訪れ、バタバタと倒れてゆく一味たち。確かに僕はあそこにならいられると感じます。あれが自分の姿だと。
 僕はたとえばシンクロニシティとかを「奇跡」や「お告げ」として捉えることにどうにも抵抗があります。シンクロニシティはシンクロニシティに過ぎないと、こう言いたくなる。ところが何某かの不気味な反復が生じたりすると、僕はたちまち「呪術的」思考様式に入り込み、サタニストたちがいう「邪悪な奇跡」の方には大いに乗る。つまりはそれは一神教への、一神教の論理を反転させたプロテストなのだから。
 だからといって、一神教そのものが諸悪の根元、人類の迷妄の始まりと思っているわけでもないのです。「仏を見た」というニュアンスにきわめて近いと思うのですが、細部に神は宿り賜うという、「汎神論」の考え方は、映像なる媒体と密接な関わりがあると思います。メシアはあらゆる空間のあらゆる瞬間に到来し続けているという。それこそが、真の「恐怖写真」たり得るのではないか。大物ではカール・ドライヤーという人がいますが、いや、僕は井手豊さんの映像は何かそれに近い恐ろしさを感じ、嫉妬しています。
 まあ、思い起こせば、10年前、新谷さんと手紙のやりとりをしていた頃、新谷さんは『ウルトラマン』をめぐって「あれは怪獣という荒ぶる神の前で、ウルトラマンが神楽を舞い、鎮撫しているのだ」と言ったようなことを書いてきましたね。ちょっと記憶が不正確かも知れませんが。で、僕はその言い方(その種の比喩のあり方)がどうにも納得出来ず、「いや、あれは怪獣殺しの見世物だ。だから楽しいんだ」と反論したのでした。
 いかん、また何だかんだで長くなりそうなので、他の論点はまた後日。
 新谷さんが「終りなき夜に生まれつく」の詩を知りたがっていたので、アガサ・クリスティの原作から引用しておきます。

 「夜ごと朝ごと みじめに生まれつく人あり
  朝ごと夜ごと 幸せと喜びに生まれつく人あり
  幸せと喜びに生まれつく人あり
  終りなき夜に生まれつく人もあり」」
  (ウィリアム・ブレイク『罪なき者の予言』)

 映画の『エンドレスナイト』ではこの詩をヒロインがバーナード・ハーマンの曲に乗せて歌うのです。