真昼の石器人 (新谷)_往復書簡_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch

■ 真昼の石器人 (新谷)

いやあ、往復書簡を書こうと思ってたら、「屋根裏部屋」の過去ログが消えて行くという現象に気づき、大騒ぎでコピーしまくってました。ああ、予定が狂った。往復書簡に投入するはずの時間とエネルギーを、ロスしまくりました。

 さて、『黄金バット』のシルバーバトン、確かにあれは一神教だと思います。しかし、高橋さんの言う通り、僕は一神教と多神教を分けて考えていないんだと思います。いや、そもそも僕には一神教という概念自体がないのかもしれません。
「早わかり?」の扉に高橋さんが「一神教と多神教の違いだ...」と書かれてるのを見て、「ああ、高橋さん、そんなに神様の話、こだわってたんだ」とちょっとビックリしたくらいです。
 高橋さんとは、よく神様話もしたんですが、大抵「高橋は一神教」「新谷は多神教」という話になりました。しかし、僕の考える一神教のモデルと、高橋さんが考える一神教のモデルは、全く違う物なんだと思います。
新谷は、風も、草も、動物も、森羅万象「神(精霊と言った方が良いのかも)」と感じています。そして、「一神教的、神」があるとすれば、森羅万象の「総体」と感じているのです。つまり、自分も小さな「神」であり、巨大な「一神教的、神」とも同体なわけで。これは、考えた事とか、教えられた事ではなく、物心ついたときからボンヤリと思ってる事なんですね。つまり、無理に言葉にしてしまえば、僕のモデルで「一神教的、神」に当たる物は、台風や、地震、雷、地球や太陽など、自然界そのもの、とも言えるわけです。ですから、シルバーバトンは地震や、台風、巨大隕石、人が抗う事のできない強大な力としての「一神教的、神」なのです(しかし、それは自分たち自身の力でもある)。
で、高橋さんと話してて、恐らく高橋さんは我々の存在する宇宙そのものと、全く別個の世界(存在)があって、この二つは決して認知し合えない関係にある。と感じてるんじゃないでしょうか。つまり、新谷の考えるモデル(森羅万象)の外に、さらに「何者か(神)」が存在する、と。だからこそ、それは指し示す事ができない、と。
これは本当にいたちごっこで、新谷にとっては高橋さんの「神」も自分の「神」に繰り込んでしまいかねないので、そこで話が堂々巡りになる。まあ、そんな話を10年繰り返して来てるんですが。
もう少し平たい話にすると、「屋根裏部屋」でも書きましたが、僕は高橋さんの「罰せられる存在」という感覚とは真逆に「自分は全てにおいて許されている」という感覚を、物心ついたときから持ってたんですね。ですから、やたら無邪気に事を起こしてしまう。はたから見ると、わけわからん奴だったでしょうね。「バカ」というあだ名をつけられた事もありました。この年になっても、ロフトで『ゴレンジャー』をかけたり、ソドム城をヤカンにしたがったり...。僕のマンガが、編集さんにとって、気違いの作品に見えるのは、要するに幼児的だという事でしょう。大人から見れば、幼児は狂人ですから。
ですから、僕自身、本当は自分の作品を狂気の産物とは、決して思ってないんです。先の書簡で「狂気と言われる物や事が、本当に狂っているのか...」と書きかけたのは、そういう事だったのです。

 『街の灯』と『為五郎』に関して、これも高橋さんとの、言葉の初期設定が逆方向を向いてるようなので、追記します。
僕が為五郎を操り人形と言ってるのは、彼がキャラクターとして、まともに動いてないからなんです。つまり為五郎が、高橋さんの言う「わけの分からないキャラクターである」事、まともに動いてないという事自体を、僕は「操り人形」と言ってるのです。
高橋さんはキャラクターが「操り人形」であれば、もっと巧妙にやれる。つまり「操り人形」という物は、ちゃんと制御でき、計画通り動く物だ、という考え方なんでしょう(ここでも、「操り人形」として作られたキャラクターが、「きちんと動く(高橋)」VS「動かない(新谷)」と言葉の設定が逆になってるんですね)。
お互い言ってる内容は同じだと思うんです。「為五郎はメチャクチャだ」という意味では。
また、僕は先の書簡で為五郎を「メッセージや、イデオロギーを伝えるための道具」と書きましたが、僕にとって、高橋さんが言う「妄執」こそが「イデオロギー」であり「メッセージ」「思想」だと思うのです。つまり、表層的な「イデオロギー」や「メッセージ」を生み出すのは「思想」であって、その源泉は「妄執」であると。僕はこの辺りをごっちゃで語っちゃうんで、誤解されたかもしれませんが。つまり僕が言いたいのは、為五郎は、妄執で動いている(動かされている)キャラクターであるが故に、制御がきかなくなって、行動がメチャクチャだ。という事です。ここまでは高橋さんと、言ってる事同じなはずで。
でも、二人の考えや価値観が決定的に違うのは、為五郎やマチャアキが、妄執によって「動いている」のか「動かされている」のか、それが是か非か、ってところです。
僕が違和感を覚えるのは、為五郎や、マチャアキの行動が、「妄執」を体内に吹き込まれ、勝手に動いているのではなく。外部から(作家から)「妄執」というリモコン電波を受けて、動かされている感じがする、という事なんです。
「妄執」を体に吹き込まれて、自立したキャラクターが勝手に動いているなら(その結果、行動がメチャクチャなら)、マチャアキは最後、カバンを持ったまま飛び降りようとはしないと思うんです。飛び降りるなら手ぶらで良いですから。
あまりに都合良く財津一郎が酒飲んでぶっ倒れたり、為五郎がチンポに火傷したり、キャラクター達の行動がどこかおかしいのは、実は、作家の「妄執」によって不自然に制御されている(それによって、行動がメチャクチャに見えるのですが)からではないのか。そこが僕には不満なんですね。つまり、キャラクター達より、森崎東という作家の姿が、手前に見えちゃうんです。映画を観てるんじゃなく、森崎東という作家を見せられている気がする。そこが『007』みたいな無名性の映画と違うところで、僕には窮屈なんですね。
細かく書き始めたら本当に終わらなくなるんで、一言で言うと、高橋さんが言う「人間をある鋳型にはめたい」つまり、キャラクターを作家がコントロールするという事が、僕には良しと思えないという事です。僕はキャラクターを、放し飼いにしたい方なんで。それによって、作品やキャラクターがメチャクチャになるなら、大OKなんですが。

 さて、『フランケン』おっしゃる通り、ラッシュが凄く良いんですね。それは今回に限った事ではなくて、井手さん(あっ、そろそろ二世が生まれるはずです、おめでとう井手さん!)と組んで作った作品では、往々にしてある事で。
井手さんという人は、普段、津山の山奥の、花やら虫やら、サンショウウオやらを撮ってる人で、いわばドキュメンタリー系、と言いますか、劇映画の人じゃないんですね。だから、劇映画的にカットを割って撮るわけじゃないんです。そのかわり、その場の一瞬をすくい上げる事にかけては超一流でしょう。彼と組んだ『フランケン』にしても、『キエフの薔薇』や『孤独の円盤』にしても、僕は今でも時々ラッシュを眺めながら、酒を飲んでます。とても気持ちいいんですね。でも、編集は難しい。特に『フランケン』は、普段以上にキャラクターを放し飼いにしてしまったため、井手さん自身「編集ができない」と言い出したほどです。僕も編集しようとして、映像が編集を拒否している、と感じました。これは我々にも初めての経験でしたね。高橋さんが「親和的な雰囲気」「楽天的な押しつけ」と感じるのは編集によって、ラッシュの持つ野放図さを制御しているわけで、ある意味、きれいに完成させすぎている。そこが、「押しつけ」になっているのかもしれません。本当は、井手さんとも「これは、ラッシュのままで完成にしようか」なんて、ずいぶん話したんです。
しかし、それよりももっと本質的な事は、井手さんという人が「地母神」の世界に住む人だ、という事でしょうね。高橋さんの「神」を父性とするなら、井手さんは母性の世界に住む人なんです。それはもはや「神」ではなく、「母」としか言いようのない太古のモノです。新谷のように、それを「多神教」という理屈で説明する事すら出来ない。なにもかもが分化する前の、渾然とした原生命そのものの中で彼は生きているというか。
「一神教」とは、近代人の発明だと言われてます。中沢新一の『神の発明』読んだんですが、難しくってよくわかりませんでした。でも、「一神教は、国家や王がないところには発生しない」という文章はビビッと来ましたね。
高橋さんに「新谷さんは、アナーキストだ」なんて、アテネでも言われましたが、実は僕に高橋さん的な「神」が理解できないのは、そもそも僕に国家や王の概念が無いからかもしれません。そして、井手さんや、酒乱の小寺はもっとそうでしょう。まあ、高橋さんが一番進化してる現代人(といっても、19世紀あたり)とすれば、新谷は石器時代、小寺は猿、井手は魚か、サンショウウオといったところでしょうか。井手さんて、本当は卵生なんじゃないかとさえ思います。
で、井手さんの持つ、異常なほどの原始性、というか、太古の超母性が『フランケン』に息苦しいほどの「親和性」をもたらしているんだと思うんです。これは井手さんを知らない人には分かりにくいでしょうが。同じ題材、同じスタッフでも、新谷と小寺のコンビなら、もっとダダイズム的(?)になったでしょうね。*

 さてさて、また長くなってしまったんですが、先日北岡さん(毒ワインの女)と話してて、彼女が面白い事言ってました。「私は死んでない」と。
つまり、現代の結婚式のシーンで、毒ワインを飲んで、出席者全滅というのが『ソドム』の設定なんですが、北岡さん曰く。「私は、いつも人に給仕して回って、自分の分がなくなるという人間だ」「だから、あの時も自分の分のワインを残し損なって、一人だけ飲めなかったと思う、飲んでるところも写ってないし」「で、私は今でものうのうと生きている」と、これが北岡論です。なるほどなあ、です。
しかし、高橋さんの「その映画に住めるかどうか」の話はもの凄く面白かったですね。僕が「森崎東の世界には、入れない、住めない」と言ったのは「映画に乗れない」という事を強調しただけだったんですが、高橋さんはモロに、自分をその映画のキャラクターとして考える。いや、大笑いしちゃいました。ジョン・フォードの西部劇で、禿鷹に食われてる高橋さん、想像しただけで。
でも、死体として自分を規定するってのも、面白いですねえ。僕はどうだろう、メインキャラクターは無理でしょうね。小寺は酒場の酔っぱらいで決まりですが。僕は、インディアンでしょうか。狼煙を上げてるだけの。ストーリーの役に立たない。いや、農家の一人娘、なんてのも良いかも。旅の保安官に、目玉焼きを作って上げるのよ。で、言い寄って、振られて、怒ってフライパンで殴り殺し、殺人を隠蔽するため、自分が保安官の格好をして、お尋ね者と戦うの、ホホホ、あら、ヒゲゴジラみたいになったわね?、オホホホホ。
ついでに、高橋さんが僕の発言として「(映画に)住める世界ではない、受け入れてもらえない...」と書いてましたが、僕は「住めない、入れない」とは言ってますが「受け入れてもらえない」とは言ってません。ここでも、見事に真逆の言葉を使ってるんですね。「受け入れてもらえない」世界とは、まさに管理者がいる世界ですから。僕は、自分自身の問題として「入れない」と言ってるだけで...。ああ、溝は深い。

 実は、北岡さんには『ソドム』の感想も聞いたんです。で、残念ながら、彼女的には『ソドム』は全く駄目だと。なぜなら、キャラクターが全員死んでるから。ここは、高橋さんの奥さんより厳しくて、プロもアマも、キャラクターが全員が操り人形(新谷の言う意味で)で、誰も生きていない、と。で、手前味噌になっちゃうんですが、北岡さんは「新谷さんと、小寺さんだけは生きてるように見えた」というんですね。考えてみれば、我々の場面は『ソドム』の世界から浮き上がっている世界で、彼らが、どこから来たのか、何者なのか、全く分からない(我々自身にも)。しかし、高橋さん的に「自分がその映画の登場人物なら...」と考えてみれば、僕たち二人は、ああいう形でなければ『ソドム』世界にいられなかったかもしれません。あれをやりたいと言い出したのは僕ですが。やはり、我々は「一神教」世界の生物ではないのだろうか...。
「屋根裏部屋」で、大門くんが書いてましたが、「世界はこうあるはずだという、その確信を得る事のできない自分は?ソドムやテレーズとは戦えないのだ?だから脇役であり殺されるのだ」という文章にも、その映画世界と、自分の関係をどう計るか、という問題が露出していて面白いですね。

 しかし、思うんですが「美学校の関係者ばかりで固めているから、身内性、仲間性で、同じ空気の持ち主...」というのは本当なんでしょうか。それが、一番説明しやすい、使いやすい言葉だっただけなんじゃないか、と僕は思うんですが。
なぜなら、僕自身『ソドム』には窮屈な空気を感じますし、素人役者が死んでるように見えるんです。でも『アメリカ刑事』はそうではなかった。あれは全員が生き生きしてましたね。「仲間内だから」というなら、劇団や、昔の大部屋なんか完全にそうでしょう。プロだから、架空のキャラクターを演じられる演技力はあるでしょうが、それが絶対とは思えないんですね。先日、テレビで最近の『ゴジラ』(どの話だかわからん)やってましたけど、あれに出てるイケメン役者は、美学校の連中より遥かに素人に見えましたし、言っちゃ悪いけど、ちゃんと演技できる役者さんが、現代どれくらいいるものか...(あっ!『ソドム』のプロの方々は、良かったですよ! ホントホント、いや、浦井がひど過ぎたのか...)。
 僕は元々ア二メーターですから、キャラクターをリズムで見るんですね。いつだったか、キネ旬別冊で宮崎駿に関して書いた事を要約しますが。
『宮崎作品を窮屈に感じるのは、彼が全ての原画に手を入れ、アニメーターから自由を奪ってしまうからで、それは実写で監督が自分で演技をしてみせる「踊る」と同じ行為である。宮崎駿は「踊り」を完璧にやってしまうので、キャラクターが全部同じリズムになってしまうのだ』とまあ、こういう事なんですね。かつて、大塚康夫や、小田部洋一と組んでた頃は、いわば自分の先輩にあたるアニメーター、自分とは、全く違った個性を持った、そして自分より上手いアニメーターがゴロゴロいたわけで、完璧に踊ってみせる必要もなかったわけです。しかし、『ナウシカ』以降、ジブリの時代になってから、若手のアニメーターと組み始めて、宮崎駿は完璧に「踊って」見せなければならなくなった...。
で、『ソドム』では高橋さんも現場で「踊って」いたわけで、それは素人役者を自分のリズムで縛る事だったと思うんです。しかも、元々素人ですから、上手く「踊り」を真似もできず、単にギクシャクした操り人形になってしまう。もし完全に「踊り」を真似できる、または高橋さんの考えている以上の演技が出来るプロの役者ばかりだったら、それは完成された世界になっていたのかも、と思うんですが。
つまり、ヒッチコックみたいに、映画を完全にコントロールしきれるなら、それはそれで良いと思うんです。でも、『ソドム』は中途半端になっている。それなら、素人役者個人個人のリズムを尊重した方がずっと生き生きしたのではないか。だから僕が好きなのは、どうしようもなく自分のリズムが露出している、氏原君登場のシーンなんですね。逆にXXX発進時の、土屋さんは個性が殺されててもったいなかったです。
まあ、先の高橋書簡でも、高橋さん自身が同じ事書いてますから、もう分かってる事でしょうし、それは演出の問題ではなく、高橋さんの「妄執」に原因する事なんでしょう。それは、良いとか悪いとかの問題ではなく、まさに高橋さんの「血」の問題で、だから『ソドム』はこんな異様な(ホメてんですよ)作品になったんでしょうね。しかし、僕の「多神教」も、僕自身の「妄執」なんでしょうか。いったい、そういう個人個人の内的確信って、どこから来るんでしょうね。不思議。

 最後に、『黄金バット』って、あれ作った人達の深層にあったのは、もしかして天狗じゃないでしょうか。「わははははっ」と笑いながら、超常現象を起こす。しかし、「黄金バット」も登場人物が全員気違い状態、というより、全員幼児状態、と言った方が良いのだろうか。なんだか、ナゾーはいじめっ子で、マリーちゃん達はその被害者。黄金バットは、ナゾーに当たる「バチ」と言う気も...。
あっ、それから僕は、『街の灯』の笠智衆がメチャクチャなキャラクターとは全く思えませんでした。あのキャラクターは、「妄執」を内蔵して自立した、ごく普通の、まことに正しいキャラクターで、その行動におかしな点はなんにも感じられなかったです。でも「妄執」って良い言葉ですね。実は、山田洋次の「オアシス」も山田的「妄執」なのかもしれないと思います。

  P・S しかし、高橋さん、ホントにこの往復書簡どうします? もう、書くのが大変で大変で。先日高橋さんが言ってたように「屋根裏部屋」くらいの長さで、もっと間隔をせばめて小回りを効かしましょうか...。このままでは他の事、なんにもできん。