「凶器」としての笑い (新谷)_往復書簡_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch

■ 「凶器」としての笑い (新谷)

さて、どこから返事を書けばいいものやら。
ずいぶん話が広がっちゃいましたね。しかし最初の頃のボルシェビズムや、笑いの話ともつながって来ましたし、ずいぶん読み応えのある(我々からすれば、書きごたえのある...ありすぎる...)往復書簡になって来たんじゃないでしょうか。
森崎東、僕は『生まれかわった為五郎』『街の灯』の2本を観ました。
2本とも面白かったです。以前も言いましたが、僕は森崎東の良い観客ではないんですが、この2本は凄く面白かった。でも、やっぱり好きにはなれない。森崎ワールドは、僕が住める世界ではないんですね。
『為五郎』高橋さんの言う通り、あれは帰って来た特攻兵でしょう。為五郎が、ヤラセの喧嘩をする時の服装、黒ジャンパーに白マフラーにもそれは暗示されてます(ガイラ飛行隊とお揃いですね)。しかし、やはり為五郎というキャラクターが、何を考えているのかが僕には分からない。生き返った後の為五郎が、緑魔子の父親ならば、緑魔子を抱かなかったり、財津一郎の動きが不自然だったり、様々な疑問が氷解するんですが、それ以前に為五郎というキャラクターが、なぜ、なんのために行動しているのかが、全く、さっぱり分からない。
彼は、手配師や、インチキ人生相談みたいな事をして食ってるんでしょうが、殿山泰司から金を受け取る場面があったでしょうか。僕は記憶にないんですが。
彼が、最初から緑魔子に惚れてるのが納得できれば、まだ納得できるんですが、それもない。なんだか、僕には為五郎が森崎東の人形に見えて、とても不快だったんですね。森崎東のメッセージや、思想を伝えるための道具に見えてしまう。
宴会のシーンでも、熱気溢れる歌や踊りが画面に映し出されるんですけど、どうしても彼らが勝手に歌い踊ってるようには見えない。なにか、大きな物に監視されているような、操作されているような薄気味悪さ、居心地の悪さを感じる(まさに、そこが高橋さんのビリビリ来る所なのかもしれませんが)。
高橋さんは「為五郎は、どうでもいいキャラクターとして、扱われているんじゃないか」と言ってましたが、それならなぜもっとひどい目にあわないのか。トリックスターとして、キャラクターとしての個性を剥奪されているなら、飯場の若い衆にボコボコにされても良いし、もっともっと惨めな卑怯者として、まさに「道具」として扱われても良い。そこから、特攻兵として甦り、人が変わったように殴り込みに行くんなら納得がいくんですが...。なんだか話が『許されざる者』みたいになって来ましたね。
逆に『街の灯』は、キャラクターがみんな自分の意思で動いていて、スムーズに世界に入れました。堺正章も、完全にトリックスターとして自立してますし、アクションも凄い。やはりマチャアキは天才だ、と痛感しました。
しかし、この作品でも笠智衆がブラジル(海の向こう)から故郷に帰り、絶望し、堺正章と栗田ひろみの仲人役を受け持ち、ピストルを持ち出す。とまあ驚くほど『為五郎』と似通っています。やはりこのモチーフ、森崎東の根幹をなす物なんでしょう。
でも、やはり最後が不自然です。栗田ひろみを失って(彼女が死ぬ事が、是か非かは、僕はどちらでもOKなんですが)身投げしようとした堺正章が、なぜ金の入った鞄を提げているんでしょう。疑問に思ったんですが、最後、走って来た電車の屋根に載せて、金を失わせるためだったんですね。
ここでまたキャラクターは人形になっている。そして「なんか変だな!」とメッセージを大声で叫ばせて、映画は終わる。やはり、映画やキャラクターを道具にして、森崎東の思想を押しつけられたようで、僕は不快なんですね。こんなの、高橋さんとは何度も電話で話した事なんですが。
頂いた森崎東インタビュー、読みました。確かに、山田洋次と森崎東の違い、オアシス(夢)を描くか、タール(苦い現実)を描くか、その狭間で揺れ動く森崎東の気持ちはよくわかるんです。『街の灯』も、恋する2人が、手に手を取って日本を脱出しました、なんて夢物語には出来ない。どこかで、現実(高橋さん的には「暗黒」という言葉になるんでしょうが)を突きつけざるを得ない、表現に対する「業」とも言える、凄みを感じます。
しかし、真に「夢」を描くという事は、現実と相反する事なんでしょうか。
本気で「夢」を描くという事は、オアシスか(安心できる良い話)、タール(現実の苦さ)か、ではなく、もっと厳しい、もっと激しい事だと、僕は思うんです。
僕には、森崎東がなぜ「オアシス」と「タール」で揺れ動くのか分からない。言い方を変えれば、夢や現実といった区分けすら吹っ飛ぶくらいの、超フィクションに、なぜもう一歩踏み込まないのかが、納得いかないんです。
もしも、笠智衆が銀行強盗を働いて、警官隊と撃ち合いになり、射殺されたとしたら...。瀕死の笠智衆から、「ブラジルに行け!」と金と拳銃を渡され、逃避行となったら...。そうなれば、ブラジル行きは、単なるオアシス探しではなく、まさに、タールまみれの、命がけの逃避行、現実との凄まじい戦いとなるでしょう。
当然、栗田ひろみの記憶が戻り、そこに警官達がやって来る。堺正章は、自分を誘拐犯と勘違いし、悲鳴を上げる栗田ひろみを人質に、あくまでブラジルへ行こうとする。財津一郎や、吉田日出子が子供を連れて、説得に来る。赤ん坊を背負い、栗田ひろみの頭に銃を突きつけて、ブラジル丸を乗っ取る堺正章。助けを求める栗田ひろみ。実は生きていた(気絶しただけだった)笠智衆もやって来る。全てはテレビ中継されている。吉田日出子や子供達は、堺正章を応援し始める。困り果てる財津一郎。ブラジルへ着いても、逮捕されるのは分かっている。しかし、堺正章はもう後に引けない。赤ん坊のミルクを警官隊に要求し、おむつを変える堺正章。それを見て、なにかを思い出しかける、栗田ひろみ。テレビを見てかけつけた女子プロレスラー達が、突入しようとしていた警官隊に襲いかかり、大乱闘。堺正章は赤ん坊を背負ったまま「早く船を出せ!」と栗田ひろみの頭に銃を突きつける。赤ん坊が、またおしっこを漏らす。スナイパーがやって来て、堺正章を狙う。それに気づいた笠智衆は、スナイパーに組み付き...。
こうなったら、結末はもうどうだって良いです。笠智衆が、撃ち殺されたり、「自殺するぞ!」とスナイパーから奪ったライフルを自分の口に入れ、出港を要求して、テレビを見てた九州の田舎が大騒ぎになって、笠智衆の元恋人が「東京に行く!」と騒ぎ出しても。堺正章が、栗田ひろみに海に突き落とされ、サメに襲われたり、堺正章の情熱に打たれて、栗田ひろみが芸能界引退宣言し、ブラジル行きを決意しても。激怒した栗田ひろみのファンの大群が、ブラジル丸に殺到し、袋だたきにされた堺正章が海に放り込まれ、それを追って、栗田ひろみも自ら海に飛び込んで、2人が抱き合って、ハッピーエンド、でも...。
そこまでやっちゃえば、オアシスか、タールか(夢か現実か)という問題ではなくなってしまう、と思うんです。「夢」の持つ激しさが、「現実」とリング外での乱闘を引き起こし、観客は別のレベルで覚醒する、と思うんです。
もちろん、松竹という会社でそんな事できるわけないんですが、これは環境の問題ではなく、本当は森崎東の内面的な問題だと思うんです。
なんだか、森崎東の悪口を書いてるように思われるかもしれないんですが、そういうわけじゃないです。むしろ、これは作家個人が、どこに作品を語る基盤を置くか、という問題で、僕が森崎東や高橋さんと違う所にポイントを置いている、という事なんです。まあ、無い物ねだりなんですけど。
高橋さんが言われるように、僕はキャラクターが、野方図に横に広がって行く事が好きですし、味噌も糞も一緒な、スラップスティック、60年代赤塚不二夫的ラストシーン(見開きか1ページ大で、あっちではチビタが喧嘩してて、こっちではイヤミが犬に噛み付かれてて、むこうでは六子が飯食ったり、マンガ読んだり、空では気球にぶら下がったデカパンとハタ坊が助けを求めている...なんていうドタバタラスト)が、心地良いんです。たぶん、今の観客が最も嫌う形でしょうし、それじゃ森崎東の作品じゃなくなってしまうでしょうが。
まだまだ、色々思う事あるんですが、恐らく読者の皆さんの99%が観ていない、観たくても観られない(ビデオもDVDも出ていない)映画の話題はこのくらいにしときましょう。しかし、文句ばかり言ってるようですが、この2本、本当にムチャクチャ面白いですよ。ソフト出ないですかねえ。しかし、この自分の内部で、オアシスとタール(夢と現実)に引き裂かれ、ゆえに「映画」という器を壊しかねないエネルギーが噴出する様、これが高橋さんが森崎映画に引かれる理由なんでしょう。
そして、その「矛盾を激しく生きる」事こそが高橋さん自身のテーマなんでしょうね。高橋さんの言う「一神教」、あたえられた規制との、あくまでリングの中で戦う事こそが、高橋さんにとって、エキサイテイングな事なんでしょう。僕の主張するのは、いわば規制を無化してしまう事にもなりかねないわけです。これは「一神教」では許されない、リング外の場外乱闘なのかもしれません。
さて、実は僕も森崎映画の、サーカスのような怒濤の作劇や、ガツンガツンと投げつけられるようなカットカットには、シンパシーを感じてるんです。以前、高橋さんとモノクロ『鉄腕アトム』の最終回(手塚治演出)を観た時、「これは、もの凄く古層の映画なのではないか」なんて話をしましたが、凄く似てると思います。

さてさて、誰の物でもない映画の話「屋根裏部屋」で美術応援の大門君に答えて、少し書きましたが、これは映画の内容だけじゃなく、作り(技術的側面)も含めて語らねばならない事のような気がします。『酒乱刑事』や『牛乳屋フランケン』や『丸くなるまで待って』など、実験的に作られて来た我々の自主映画でも、先の森崎話に出てた「カットカットの断片性」「ドラマやキャラクターを置き去りにした、何ものか」の発動を無意識のうちに求めていたようです。それは、高橋さんがチャプターで書いていた「物体そのもの」を突きつけるという事と軌を一にしているのでしょう。そういえば『酒乱刑事』(そのうち「CINE=GUERILLA」で配信予定)で、僕が一番好きなシーンは、やはり段ボールで作った(またかい)ビッグ署長が、暁君(大和屋さんの息子さん、現在シナリオライターとして活躍中)に支えられ、ノッシノッシと歩いてくる所なんです。
映画が断片的になるという事は、そういうカットが平然と侵入できるという事なんでしょうし、それが「映画」が本来持っていた表現の凶器性だと思うんです。
「映画の魔を呼び込む」という言い方がこの往復書簡には、最も適してるんでしょうが...。
僕の友人で「仏を観た」という言葉を、好んで使う奴がいます。たとえば桑田次郎が突然仏教マンガを描き出したり、ビートたけしが事故にあって、映画の作風が変わったり(僕はそうとも思えないんですが)。赤塚不二夫がガンで死ぬと言われても、全然死なず、毎日酒を飲み続けたり。なにやら、彼によると「それは、仏を観たからや...」なんだそうです。赤塚不二夫にとって、アルコールは「仏」なんだそうで。僕にも、彼の言う事、ようわからんのですが、そういえば「仏」は米粒一つにも、そこらの塵一つにもおわす、なんて子供の頃祖母に言われた気もします。映画の一コマ一コマにも、「仏」や「魔」が住んでるんでしょう。中沢新一の『はじまりのレーニン』の話してて、そんな話題が出たような記憶がありますが...。
そういえば、レーニンもよく笑う人だった、なんて書かれてましたね。その笑いは、もしかすると黄金バットの笑いと、同質のモノだったのかもしれません。
おかしいから笑うとか、コミュニケーションとしての笑いとか、体が麻痺した症状として笑うとか、そんなものではなく。天から降ってくるような「笑い」。全ての価値観を破壊する、衝撃波のような「笑い」。
そこには、恐らく一神教も、多神教もなく、確かな価値観や、善も悪も、秩序も混沌もないんでしょう。もっともっと、原初の、なにものか。そこに踏み込むと、もう人間として帰って来られない...。ゴッホなんて人は、それ(仏か?)を見てしまったのかもしれませんね。
以前、僕が大好きな、手塚治の少年時代の話をした事がありました。手塚のモブシーンは、なぜあんなに素晴らしいのか、という話からだったと思うんですが。

戦時中、手塚治が学生時代の事。徴兵された同級生達の、見送りの日。真冬の深夜、皆が駅に集まる。多くの友人達が夜明けと共に出征し、二度と帰って来ないであろう、その不条理。雪が降る極寒の中、誰も口をきかない。あまりの寒さに、皆足踏みをはじめ、いつしかワッショイワッショイと、ホームで走り始める。暑くなり、制服を脱ぎ始め、全員が全裸で、狂ったように大笑いしながら何時間も騒ぎ、走り続けた。ホームは、体からの蒸気で白煙に包まれていた。そのうち夜があけ、皆服を着、同級生をバンザイで見送り、一言も口をきかず家路についた...。

記憶だけで書いてるんで、かなり新谷の演出が入ってると思うんですが、大体こんな話です。
ここで、彼らが発した笑い、もちろん黄金バットとは違うけど、かなり近いものを感じます。なにか、生命の原初の叫びのような。混沌(カオス)と秩序(コスモス)がせめぎあいながら、強烈に発光しているような。
僕も、笑い好きの人間なんですが、むしろ楽しく笑わせようとか、面白がらせよう、なんて思ってませんね。自分自身にも、読んでくれる人にも、黄金バットのような笑いを呼び起こしたい。そうでなければ、絶句させたい。それによって、既成の価値観や大切なもの、役立つ事を全て無化したい。まあ、編集さんが頭を抱えるのは当たり前でしょう。「気違い」だの「なんで、こんな物描いたんですか!」と怒られて、さらに編集さんが泣き出した事もありました。
ある意味、僕にとって狂気(狂気という言葉も、実際は不正確なんですが)こそが、黄金バット的笑いを呼び起こす手段なんでしょう。そして、その笑いは、観客にとって、また僕にとっても、特に編集さんにとっては「作品」が「作品」としての意味を無くしかねない「凶器」の笑いなのかもしれません。
よく編集さんに言われました。「こんなマンガを描くあんたは気が狂ってるし、キャラクターも全員、気が狂ってる」って。
しかし、狂気と言われるものや事が、本当に狂っているのか。なんて言い出したら、また話が長くなるんで、ここらでやめときます。まあ、浦井くんの行動や、小寺さんの泥酔状態、(高橋)実さんの生活、井川さんの演技(『続 夫婦刑事2』)なんか見てたら、「狂気」なんて言葉も顔色をなくしますけどね...。

 P・S そういえば『黄金バット』のキャラクター達って、みんな気が狂ってるような行動しますよね。そこが大好き。