大洪水の後で(高橋)_往復書簡_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch

■ 大洪水の後で(高橋)

 何だか西山洋市語録は更新されるは、港博之の「贋作屋月猫堂」はオープンするは、いつの間にか俎渡海新聞は刊行されているは、えらいにぎわいですね。清水崇も帰国したし、『稀人』は小中さんがホームページでバックアップしてくれているから、これで陣容は万全だけど、客は入っているのか。 

 で、往復書簡ですが、何というか、大洪水が過ぎ去った後のようだ。浦井崇と一緒に何もかもが流されていってしまったような‥‥。いったい今まで何をしゃべっていたのか、頭の中が真っ白だ。まあ、新谷尚之が何かやると、だいたいいつもこんな感じだ‥‥。たった一晩で安房直子ばりのパッチワーク童話なのか、調伏の呪文なのか、よく判らんものを書いてしまうのだから、これはもう「無駄な才能」としか言いようがない。そうだ、新谷尚之はおのれの才能がいかに「無駄」であるかに賭けているのだ‥‥。 
 しかし、浦井崇はあのような仕打ちに合いながらも、ラジオ番組で『ソドム』を宣伝してくれた。浦井のしゃべりは面白かったですよね、『ソドム』の宣伝以外は。宣伝は僕が助言したことをそのまましゃべろうとして、かつ間違えていた。助言なんかするんじゃなかった。だいたい、いつもこんな感じだ‥‥。 
 『ごんたくれ』という映画に浦井が出演してたなんて、僕は初めて知ったけど、あいつのあり得ない芝居のせいでキャメラマンがファインダーを覗きながら倒れていったというのは、『ソドム』がどんな映画かを視聴者に最も雄弁に伝えていたように思います。『ソドム』では、さすがにキャメラの木暮は倒れなかったけど、安里は何度も転けた。「あり得ない」とつぶやきながら‥‥。だから、あいつは何も変わっていないのです。あいつほど「僕は変わりました」と連呼する人間もいないのだけど。 
 それにしても浦井崇のポジションは不思議だなとつくづく思いました。吉本の厳しい芸人の世界で生きながら、それとは違う「笑い」を求めて映画美学校にやってきて、そこで出会った師匠たちは確かにことごとく「笑い」の感覚が変だった‥‥。そして、おそらくかかる「笑い」の感覚はかつての芸人仲間からは厳しくジャッジされ、世間の大半もそのジャッジに賛同するであろう。しかして、浦井崇の求めているのはもっと万人に受ける「笑い」のように思える。このパラドックスを彼はどう引き裂こうとするのだろう。 
 浦井崇は山に還してしまったけれど、新谷さん、ひょっとして見てるかどうか不安なんだが、ヒッチコックの『鳥』ってありますよね。あの鳥が群がったラスト・シーンをよく批評家は「終末的光景」って言うんだけど、僕はそれ違うよなあと。終末じゃなくてせいぜい中世ぐらいに戻っただけじゃないかと。あの頃の人間は、人間同士でも戦っていたけれど、それと同じくらい必死に動物たちと戦っていて、パリは狼の群れに包囲されて危機状態に陥ったりしていたのです。そんなわけで我々はつまり動物との不断の抗争状態に入ったのです。浦井崇はいわば遊撃手です。味方とか撃つ。だから話のつながりに関係なく、いつでも好きなときに山から叫んでくれればいい。里に下りて暴れてくれてもいい。射殺するかどうかはその後で考えましょう。 

 ところで、ネット配信している万田邦敏の『続夫婦刑事2』は視聴できましたか。いつの間にか浦井もキャサリンも柴野敦も遠山智子も出ています。しかし、まず強調しておきたいのは、我々の知り合いでネット上で一番バカやってるのは、部長役の井川耕一郎じゃないかということですね。我々がこのホームページでどんなバカやろうが、あれにはかなわないだろうと。ほんと、日本が世界が目撃してほしい。 
 万田さんの「笑い」は‥‥やっぱり変です。もちろん他人のこと言えませんが。僕なりの言葉で無理やり言えば「理に落ちた笑い」をトコトン追求しているというか。知的にひねってそうしているのではなく、「理」は「理」でしかないという暴虐こそがナンセンスだろうという、万田さんにとっては自明の感覚が吹き出しているように思う。「理に落ちた笑い」とは「無駄な才能」と同じくらい激しい矛盾です。我々はみな、この矛盾に満ちた、おそらくは理解されにくいだろう領域に近接を試みている。しかし、矛盾とはそもそもは矛盾ではなかったはずなのです。新谷さんの言葉で言えば「混沌」ですかね。ああ、だんだん頭が元の回路とつながってきた気がする。それは自明のことだったのだ‥‥。 
 初日の舞台挨拶でも言いましたが、『ソドム』を見た人からよく「これ、笑っていいんですよね?」って聞かれる。「もちろん、いいんです」と答えるしかないんだけど、内心は「聞いてくれるなよ‥‥」と困惑している。笑うことがある態度決定を前提とされるというのは、何か先の書簡で触れた「距離化」「対象化」の問題とも関わりがあるようで抵抗がある。いったいいつからそうなってしまったのか‥‥。その『ソドム』の笑いについて、あれは手塚治虫の漫画のシリアスな場面に平然とギャグが入ってくる感じなんだ、自分にとってはそれが当たり前なんだということを、中原昌也に話したら、「いや、あれは照れでしょう」という反応で、何かうまくそこから先に話が進められなかった。あるいは僕の言い方の問題で、中原さんは手塚漫画の別の場面を思い起こしていたのかも知れないけど、たとえば僕が言ってるのは『三つ目が通る』にベートベンそっくりの運命警部というキャラクターが出てきて、まあ顔が出ただけでも笑うんですが、部下たちに出動を命じるときにタクトを振って指揮して「運命が私を呼んでいる」とか勝手に盛り上がっている。あそこがおかしくておかしくてしょうがない。まあ、『鉄腕アトム』の頃からなんですが、僕はいわゆるギャグ漫画と呼ばれる赤塚不二雄のものとかは、決して笑うことがなく、むしろ薄ら寒い何かを覚えて、本当に笑いがこみ上げてくるのはギャグ漫画とは呼ばれない手塚治虫の方だということを不思議に感じてました。スカンク草井というキャラクターが出てきますよね。さすがに子供でもあの名前だけでは笑わない。ところがスカンク草井は登場するとき「へへ、へへへ」と笑うんです。ここで僕は笑い転げるしかなくなる。かかるギャグ漫画と笑いの乖離を初めて統合してくれたのは『がきデカ』でした。だから、あれはまったく革命的な体験だったわけです。 
 「照れ」という言葉がどうも違うと思うのは、そうすると結局、それは自意識の問題に回収されてしまう、「距離化」「対象化」の話になってしまう。しかし、手塚漫画はそうした以前のもの、シリアスやギャグすら未分化であった律動の中に身を置いていたし、それがそもそもの我々の体験だったんだ、ということなんですね。こういうことは非常に理解されにくいんだろうか‥‥。 
 ただ、こうして書いていて気づいてきたのは、僕にとっての「笑い」とはある「解放的」なるものとつながってるんでしょうかね。それが同時にたとえば赤塚不二雄の薄ら寒さ、つまりは「恐怖」ですらあるものとは両立し得ないのかしら‥‥? そう言えば『ソドム』のシナリオを考えているとき、あれこれ音楽を聴いて、『バンパイヤ』の主題歌と『新八犬伝』の「夕焼けの空」が裏テーマ曲じゃないかとか、新谷さんと話しましたね。『バンパイヤ』の歌詞は1番が「悲しきさだめ」であり2番では「呪われし民」であったものが3番では「雄々しき命」と革命の歌へと高鳴ってゆく。そして「夕焼けの空」は地上では決してあり得ないだろう「連帯」への希求を歌ったものですね。同じ血が流れている者たちがきっといるはずだと。それは僕がソドム一味に込めた思いです。それは同時に映画を作ることの「集団性」への思いでもあった。以前、宮崎駿について話したとき、新谷さんから僕には強烈なユートピア志向があると指摘されましたね。その通りだと思います。ただそのユートピアとは「天使主義」と呼ばれるように、地上に降ろしたトタン、ナチズムのようなおぞましい化け物にも転化し得る。化け物でしかないからこそ悲劇的でもあるんです。そこと「解放」とのバランスが非常に難しい‥‥。まだまだ『黄金バット』の話とかありますが、とりあえずここでタッチ!