ボリシェヴィズムと新しい人間(高橋)_往復書簡_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch

■ ボリシェヴィズムと新しい人間(高橋)

新谷さんへ。

 最近、『ソドム』美術の山本君から『ボリシェヴィズムと新しい人間』(佐藤正則著)という本を教えて貰って読んだんですが、どうも僕たちが『ソドム』をめぐって延々議論してきたことは、ひょっとしてプロレタリア芸術運動に近かったのではないかという気がしてきました。作家個性を乗り越える「集団性」を目指すということや、そこでぶつかるプロフェッシナリズムとアマチュアリズムの問題とか、何かすごく近い問題意識を持っていたなあと。で、結局、その試みはソ連では革命後ほどなくして破綻し、いわゆる社会主義リアリズムに取って代わられてしまう。本当はプロレタリア芸術運動だったゴーリキーも社会主義リアリズムの父に祭り上げられ、沈黙してしまう、ということだったらしいです。

 で、その辺の話を先日、映画芸術のインタビューで、畠山宗明君と話していたら、彼はエイゼンシュテイン研究の専門家だから当然、この本も読んでいて、アレクセイ・ゲルマンがペレストロイカ以前に抑圧され、公開されなかったのは、彼がいわゆる社会主義リアリズムではなく、ホンチャンの社会主義リアリズムをやってしまったからではないかと、実に面白いことを言っていた。日本でいうとそれは森崎東ではないかと。

 先日、森崎さんの喜寿・出版祝いパーティに行ってきて、そこで河原さぶが「ジャンジャラスッポンポン」を歌い出して、ああ、あれが聞けたのは本当に幸福だった。『党宣言』に出てくる「年に一度のくらやみ祭り」という地下炭坑夫の歌なんですが、森崎東は本当に「暗黒」をはらんでいるから強い。

 で、昨日は安里の『地獄小僧』の舞台挨拶に行ってきて、日野日出志先生に会ってしまった‥‥。緊張しました。で、『蔵六の奇病』を描いた頃の話をうかがってると、あの短篇を描くのに延々300枚も描き直して、その時24歳の自分のこれが限界だと思えたところでやっと出版社に持ってゆく。聞いてるうちに、新谷さんの『納涼アニメ電球烏賊祭』製作の話と重なってきました。「凝縮」に向かってゆくあり方というかね。先生は台詞の吹き出しが嫌で、吹き出しの枠が人物にかかったりするのが耐えられないんだそうです。ネームから発想するというのも出来ないと。で、やっぱり絵本とか紙芝居アニメとか、漫画とは異なる表現形式をずっと模索している。僕にとってはトラウマ体験の張本人だけど、いや、「芸術家」の凄味漂ってました。

 何か話がドンドンばらけてきてますけど、とりあえず最近の体験から入り口になりそうなこと並べてみました。ググッとさかのぼって、一番初期のプロットとかから話してくれてもけっこうです。(高橋)