地下映画の世界より(高橋洋インタビュー)_世界ソドム会議_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch

■ 地下映画の世界より(高橋洋インタビュー)

地下映画の世界より
(京都CINEMA ENCOUNTER SPACEによるインタビュー採録)

【0.魔界の近況】
◎<青木>昨日、ゴールデンタイムの特番(ドスペ!「魔界潜入!!怪奇心霊(秘)ファイル」テレビ朝日;2月5日(土)19:00?20:54)なんですけど・・・ご覧になってます?

●<高橋>あぁー、昨日は昨日でトークショーがあって、見てないです。

◎<青木>いや、とにかくすごかったんですよ。ある家が呪われてるってことで、ものすごい攻撃されてるんですよ。壁に「死ね」って書かれたり、仏壇の仏像の首が取れてしまったり、家がいきなり燃え出して、その燃え跡がキツネの形になったりとか。家の人がものすごいノイローゼ状態になってしまっていて。で、最近有名な百戦錬磨の下ヨシ子(http://www.shimo-yoshiko.com/)先生が、人(の幽霊)じゃないって。神様が襲っているようなものだって、仏罰だって言ってました。まったく原因がつかめないで、そのまま番組が終わったんですよ。

●<高橋>ああ?仏罰(笑)そこにいる人の因縁因果ではないんだ?

◎<青木>それかどうかもわからないんですけど、分からないっていう。でも確実にいることはいるんですよ。

●<高橋>じゃあ、意味不明なポルターガイストなんだ。

◎<青木>意味不明なんですよ。で、住人のひとりがとり憑かれて、人形に刀が刺さっていて、何も解決できずに終わったんです。

●<高橋>どこの地方だったの?

◎<青木>う?ん、どこだったか・・・伏せられていたのかな?

◎<田中>壁が真っ黒だったって?

◎<青木>そう、黒い壁に「死ね」とか彫られてるんですけど、その壁っていうのが、よくみたら黒カビで真っ黒だったんですよ。そこに「死ね」ってでかでかと彫ってある。それこそ『ソドムの市』で「ソドム」って字が彫られているのが出てくるじゃないですか。あんな感じで「しね」「きえろ」ってカタカナとひらがなで。

●<高橋>ほぉ?。何で彫ってるかは分からないんだよね?

◎<青木>分からないこと尽くしで終わってしまったんです。

●<高橋>そうか?、いいなぁ。そういうのをフィクションでやると難しいんだよな(笑)。

◎<青木>やけに面白くて。普通の幽霊映画を見るより面白かったかもしれない。

●<高橋>昔、ニュースステーションで岐阜の幽霊アパートを特集して実況をずーっとやってたんですよね。「いま、何か起こるかもしれません」って言って。その臨場感っていうだけで結局何も起こらないんだけど。

◎<青木>あ、その岐阜の事件を解決した霊媒師なんですよ、下ヨシ子さんは。

●<高橋>あれ、解決したの? その家はキャメラが回ってる間に何か起こるの?

◎<青木>除霊中に天井からバタバタバタ・・・って走るような音があったり、いろいろ起きるんですよ。

◎<田中>高橋さんも数年前に京都に前に来た時に行かれてましたよね。

●<高橋>太秦そばの幽霊マンションにね。僕は霊感とかはないですけど、あそこは怖かったですよ。こんど映画になるらしいですよ。『新耳袋』の映画版の長編で。豊島(圭介)さんだったかな?監督は。


【1.バラバラであるということを積極的に受け入れる】
◎<田中>『ソドムの市』、僕は今日で2回目だったんですが、1回目がわりと戸惑いながら、ことあるごとに「あっあっ」て思いながら見ていたんですが(笑)、2回目は意外に全体を流れとして見ることができて、妙に納得して見ていたということがあって、かなり印象が違ったことが面白かったですね。さっきの心霊番組の話じゃないですが、何が起こるか分からないようなドキドキ感を越えて、作品の冒頭の作り方なんかで盛り上がって、熱く見ました。

●<高橋>何か、わりとはじめはバラバラに見えたものが2度見ると繋がって見えるというヘンな映画らしいですよね、この映画は。

◎<田中参加しているスタッフもやりたいことをやっているという感じで、ミニチュア合成、スクリーンプロセス、ガン・アクションとか仕掛けも盛りだくさんですよね。DVの作品なんですけど、そういう効果の部分でフィルム映像を使ったりして、画面がすごく厚みをもって見えました。そういうところが2回目でよく見られたと思うんです。

●<高橋>初見の印象で、バラバラに見えたまま拒絶されちゃうということもあると思うんですけど、何かに引っかかってリピートして見てくれるという人はいてくれて。数は多くないですけどね(笑)。
最初は編集でもう少し通常のタイトなしめ方をした方がよかったのかなぁ、という正直迷いはあったんですけど、いや、そういうディレクターズ・カットみたいにいじるのはよくない、と思って、最初にこれでいいんだ、と思った長さでもう悩まないことにしたんです。それ故にある種バラバラな印象も見る人によっては与えるし、全然違う印象が2回目に出てきたりするという、見る人によって受け止め方が全然変わってくる映画になったのかな、というので、むしろバラバラであるということを積極的に受け入れようという感じにしておいてよかったと思ってるんです。

◎<田中>最初の準備段階や、シナリオでやろうとしていたところと、現場で「こういうことをやってみよう」と言ってできたものの割合というのはどのくらいになりますか?アクションや特撮の仕掛けとかは準備が要るので、そうそう変えられないとは思いますが。

●<高橋>もっと現場でいろんな物理的な条件でできなくなって、代わりに何か別なことをやらざるをえない、とかそういうことが入ってくるかな、と思っていたら、思いのほか脚本の通りに行けてしまったという感じで、そこが昔の自主映画のつくり方とは違うところですね。一応スタッフたちがプロの現場を踏んできていて、かつどこかで「商品」という形でまとめないといけないということがあって。そういう意味ではわりと脚本で計算した通りにスポスポはまっていっちゃいましたね。

◎<田中>監督としての高橋さんが発想したものが確実にできていくというのは、普通のプロの現場の場合はそれが一番なんでしょうけども、今回のような企画だと、高橋さんの中でスタッフからもっと違うアイデアが出たのではないか、というような気持ちはありますか?

●<高橋>うん、何か僕が「先生」みたいな立場になっちゃっていて、まあみんな気心が知れたスタッフではあるんだけれども、やっぱりどこかで僕が言うことにみんな従っちゃうというかね。それはかつての自主映画の無責任ないいかげんなアナーキーな世界とはまたちょっと違う空気だったんですよね。でもそういうふうにきちっと統制を取って動いてくれる人たちだからあの規模のことができたということもあるので、それは本当に難しいバランスだなぁと思いました。

◎<田中>でも、一方で特撮担当された新谷尚之さんなんかはすごいアイデアを出してきたりしたということです。ソドミー城を「やかん」の形にしたかったんだけど、高橋さんが「それだけはやめてくれ」って言って止めた、というエピソードなんか面白かったです。

●<高橋>そうですね、一番バトルをしたのは新谷さんなんですよね。やっぱり新谷さんぐらいのポテンシャルが必要なんですよ。バトルをするのには。ただ、全員があのポテンシャルで来られたら身が持たないんだけど(笑)。それはスタッフの一人からも反省点として出ましたけどもね。当初はみんなで具流八郎をやろう、とはじめたんだけど。でも真の具流八郎的な身体を全うしたのはスタッフで新谷さんだけだった、と。そういう反省はあるということを後で言われましたけど、でも全員があんな異常な人になれるはずないしなぁ、っていうね(笑)。どっかでまじめな人もいないと物事が成り立たないわけですし。

◎<田中>まじめな人っていうのがわりかし若い人の方になっていたわけですね。

●<高橋>助監督をやってくれた安里や、撮影をやってくれた小暮っていうのは映画美学校の一期生なんですけど、「監督の意図を最大限達成するためにがんばらねば」っていう感じで縁の下で支えてくれました。

◎<田中>助監督の安里さんは「映画番長シリーズ」でも一作監督をしていて、その後も今劇場公開されている『地獄小僧』を撮ったりというふうに活躍されていますね。

●<高橋>『地獄小僧』は『ソドム』を撮ったすぐ後なんですよね。ほとんど『ソドム』で試した合成とかの方法論とかも含めて、スタッフもほとんど一緒、同じで。『ソドム』が終わったらすぐそっちの現場に行って。

◎<田中>じゃあ、『ソドム』の経験がすぐ活かされて。

●<高橋>結構世界観も近いし、『地獄小僧』という題材そのものもネタ的に近いというのもあるんですけど、わりと姉妹編みたいな性質のある作品で。

◎<田中>安里さんっていうと「刑事祭」の『子連れ刑事』もありますね。これが一番最初かな。面白かったです。美学校一期生というと『呪怨』の清水崇さんと同期ですね。

●<高橋>そうですね。


【2.アレゴリー(寓意)という論理】
◎<青木>僕も今日2回目を見て、さっき高橋さんが言ったように繋がって見えたんですよ。1回目を見た時の面白さっていうのは、たとえばすべての映画に共通しているのはどんなに評価があってもなくても「映画」じゃないですか。それを全部考慮に入れた上ですべてをひとつに凝縮することは可能なのかどうかというのを実践して見せていたように見えたんです。そこがものすごくダイナミックだったんです。迫力があって。2回目に見たらその辺りのことに整理がついて、なるほどな、と思いました。

●<高橋>本当に"断片、断片"で行きたかったんですよね。それは脚本を作っていた時からそう決めていて。普段仕事でやる脚本の作り方とは全然違うやり方をやったんです。普段の仕事ではもっと緊密に作るんですよね(笑)。ちゃんと細部と細部が連携しあうように作るんですけど、そういうのを一切やらない!というふうに決めて、もう飛躍するところはどんどん飛躍しちゃっていいんであってね。

◎<田中>その"断片、断片"の感覚というのは、高橋さんの根っこのところでイメージしている映画がそういうものだということなんですよね。

●<高橋>うん。今日久しぶりに『怪人マブゼの挑戦』を見たら、やっぱりそうだったね(笑)。ひとつひとつをとったらどうでもいいようなことしか起きてないっていうさ(笑)。一応、謎を追っていく話ではあって、警察捜査側が犯罪の核心部に向かって突き進んでいくというあるベクトルは持っている物語ですけど、肝心のことを言う人がすぐそこで死ぬとかホントどうでもいいよなぁということが次々と起こって、なにかひとつひとつが本当にストーリー上必要だったかどうか怪しいという。そういうものの集積でしかなくって、一種のガラクタ感があるというかね。荒廃感。本当に荒涼とした感じでモノが転がっているような映画だなぁと思って。そういうのって、本当のパブリックなお客さんということを考えたら、多分みんな拒否反応を起こすと思うんですよね。だから『ソドム』に対するひとつのリアクションとして、「誰にも感情移入ができない」ということはよく言われました。特に、プロフェッショナルな意味でのエンターテイメントを要求あるいは追及している人は、映画業界の人でも観客でもそうなんですけど、やっぱり感情移入をしないとだめなんじゃないか、というのがある。そういうキャラクターに感情移入できるような作りには全然したくなかった。さっきの『怪人マブゼの挑戦』を見たら、やっぱり誰にも感情移入はできないよね、あれ(笑)。一応正義の味方みたいな人はいるけど、どうでもいいしね。

◎<田中>例えば"断片、断片"という見せ方っていうのは、かつてのB級映画とかに顕著なものだったんでしょうか。

●<高橋>一番意識したのは、1930年代の、それこそ『マブゼの遺言』というフリッツ・ラングが亡命寸前に撮ったものだったり、馬徐維邦(マーシュイ・ウエイバン)の『深夜の歌声』(『夜半歌声』)だったりするんですけど、ああいうサイレントからトーキーに移行する時に作られた映画の、サイレント的な大仰さとトーキーのシンクロする時間との流れがヘンに違和感を持ってぶつかり合ってしまっているような、ゴツゴツした感じの映画が僕は一番好きなんですよね。それ以後、トーキーが洗練され完成されてくるにしたがって、映画の中で起こることと時間のシンクロとがもっと洗練されてくるんですよね。きれいにまとまってきて。それがハリウッドでいうと1940年ぐらいに完成されて、以後それで来ているんじゃないかなと僕は思っているんですけど、やっぱりこの映画を作る時にはいかにサイレント的であるかというのを意識したんです。そのサイレント的であることをトーキーの中で起こした時に起こる違和感ゴツゴツ感というのを出したかったんです。連続活劇みたいな。まさにドクトル・マブゼというのは連続活劇であるし。かつての映画はなぜか主人公は悪だったんだ、という。連続活劇はそうでしたよね、ジゴマだってそうだし。なぜフィクションって悪を主人公とすることから生まれたのかしら、という不思議さがあるんですけどね。そこからはじめたいと思いました。で、ホームページとかでも議論しているんですけど、『黄金バット』もそうなんですよね、もとを辿っていくと。実は悪人である怪盗バットが主人公で、それに対抗するキャラクターとして黄金バットが出現して、で、いつにまにか主役交代劇が起きて、悪の方が覆面を被りナゾーと名乗って敵対する悪の権化と化していくという。名目上の主人公は正義の味方の黄金バットになってるけど、出発点においては逆であった、というなにかその辺がすごく面白いんですよね。悪から物語を語ってみるということはひょっとして原初的な物語に立ち返れる契機になるんじゃないか、と。だからしきりに神話的であるとかそういうことを撮っている間にも新谷さんと話してましたね。

◎<田中>なるほど。それと、悪いことが起きないと物語が始まらないということもあると思います。
それで、『ソドム』はそういう神話的な物語を語る上で、登場人物の名前がソドム、キャサリン、テレーズとかになるんですが、みんな日本人が演じている。小嶺麗奈さんとか目鼻立ちがはっきりしてますけど、どう見たって日本人です(笑)。で、その人物たちが中世ヨーロッパ(?)を舞台に悲劇を演じた後、300年後の現代に飛んで、いきなり短パン姿の小学生になって缶蹴りをしだします(そこでも悲劇が起きるわけですが)。ソドム市郎は大阪弁で、でも妹キャサリンは標準語。彼らが現代に転生する前世では、主人であるソドムが召使のキャサリンとテレーズと一緒に濡れ衣で殺しているのに、なぜかキャサリンが市郎の妹となって転生しているというのは理に落ちるかどうかという問題を超えています。こういう側面から見ても、ある種運命論的な神話的な力がそうさせているのだな、という解釈をしないと、一般の尺度としてキャラクターや人物同士の関係を結ぶにあたっての同定性が適応不能な事態が次々と冒頭から展開されていくわけです。

●<高橋>これもホームページなどで議論するうちに、「あ、そう言えばそういうことかもしれない」と思ったのがアレゴリー(寓意)ということなんですけど。もうだいぶ前ですけど、柄谷行人さんとかが、ベンヤミンを踏まえてはいると思うんだけど、シンボル(象徴)とアレゴリー(寓意)という対立した概念として、シンボルじゃなくてアレゴリーなんだということを言った時に(たしか大江健三郎かなんかについて書いていたんですけど)、すごく影響を受けたんですよね。要するに、シンボルというのは一般を代表する特殊である(柄谷さんの言い方だとね)と。で、それに対してアレゴリーというのは、一般じゃないんだ「この○○」なんだ、と。「この」っていうところの、ただ何ものにも代えられない単独性であると。この単独性こそが普遍を表しうるのであるという、その考え方がすごく魅力的だったんですよね。僕が感情移入が嫌いなのは、多分つまり、一般を代表する特殊ってやると、一般のお客さんみんなの気持ちがあるキャラクターに向かって感情移入を呼び込んでしまうから、嫌なんだろうなって思うんです。きっとシンボルじゃなくてアレゴリーの方で人物も出していきたいと思ったんだろうな、と。それで、それこそ昔のサイレント映画や『鉄人28号』などのマンガなんかは、シンボルじゃなくてアレゴリーで動いていたんじゃないか、と。大江健三郎なんかは意図的にそういうのを題材に取り入れていたんだろうけど、小説とかも初期のものはそうだったんじゃないか。あからさまな例として、確かナサニエル・ホーソーンだと思うんだけど、主人公の名前が「グッドマン」とかって言うんだよね。「善人」っていうキャラクターを表わすっていう。もうコテコテなんだけども、そういうネーミングの仕方って今はもう全然リアルではないからやらないけど、かつてはあった。手塚治虫のマンガでも、悪役で「ロック・D・ナッシー」とか、『鉄人28号』でもギャングの親分の名前が「スリル・サスペンス」って言ったり。「ふざけてんのか!」じゃないんだよね(笑)。「そういう人っていうことにしよう」というお約束みたいなものなんですけど、それによって普遍的なことが描ける。もうその人は悪人なら悪人としてのある役割を運動していればよいのであるという。そいうものの作り方が『ソドム』でやりたかったんだな、というか、自分の体質は本当はそっちにあるんだな、って思いましたね。ま、アレゴリーなんて言葉はあとでつながってきたんですけどね。

◎<田中>整合性なんか無視してぐちゃぐちゃにしちゃったほうがいい?

●<高橋>う?ん、ぐちゃぐちゃっていうよりは、例えば「俎渡海市郎」なんていうネーミングは「ロック・D・ナッシー」みたいな感覚じゃないですか。そういう人間をポンと置いたらそれはもう神話の中の人物のようなものなので、このキャラクターが要求する論理で何やってもいいんだっていうさ。それは、日本の神話で、スサノオノミコトが何やっても、「唐突だよ!」ってことをやりまくるんだけど、「しょうがないよ、神話だし」って言ってみんなあきらめて付き合うしかないっていう。そういうことなんですけどね、キャサリンとかテレーズとかって名前は。もう名前から異化しているってことで。もう神話の中の人ですから、そういうことで納得してください、っていう宣言みたいなもので。この人たちが何をやってもOKなんだということです。それ以外の人物っていうのは全部本人の名前。

◎<田中>蛇吉も・・・

●<高橋>あ、そうですね、あと蛇吉とマチルダですかね、アレゴリカルな名前としては。他の渋谷教授とかドクター松村とかは本人と一緒です。

◎<田中>キャサリンっていうのは、「刑事祭」で高橋さんが撮った『アメリカ刑事』にも出てきましたね。同じく宮田亜紀さんが同じ役で。ソドムの浦井崇さんもこの時はアメリカ刑事役で、」やはりふたりは兄妹。この時からそのまま『ソドム』に移行しようとか考えていたんでしょうか。
●<高橋>いわゆる感情移入を呼び込むようなキャラクターではなく内面を持たない人たちを描くというのは、逆に言うと目の前にキャラとしてすでにいる人がいるからこそできるのであって、それは自主映画の発想に非常に近いんですね。目の前にいるこの人だったらこういう役柄、この人から自然に生まれてきた役であると。だから宮田さんっていう人がいなかったらああいうキャラは生まれてこなかっただろうと。彼女は個人的によく知っていて、この人を出したいなぁと思っていたんです。そうすると彼女の方から自然に(彼女自身は何も意見は言わないけれども)ああいうキャラクターが生まれてくるし、名前も当然のようになぜか決まってしまうんですね。そういうのが来た時にはそれが正しいに決まっているので、それ以上もう何もしない。

◎<田中>『アメリカ刑事』で、刑事が窓ガラスに字を書くところがありますよね。"live(生きろ)"って。

●<高橋>先にキャサリンの方が"I'm sick(私は病気だ)"って書いてるんですね。思いっきり説明をしてるんですけど(笑)、それも普通の物語の語り方じゃないですよね。普通は絶対やらない(笑)。それと同じ精神が『ソドム』には貫かれていると思います。で、浦井崇演じるアメリカ刑事が返して窓の反対側から"live(生きろ)"って。

◎<田中>でもキャサリンの側からは"evil(邪悪な)"というふうに見えてしまうという。僕、あれ大好きなんですけど、ああいう発想はどこから出てくるんですかね?

●<高橋>あ、僕はネタメモはいっぱいありますからね。くだらないことを思いついたらすぐメモしておきますから。それがどこで使えるかはわからないんですけど、あれもだいぶ昔にふと思いついたアイデアで、でも多分商業映画では使えない。ああいうシーンを商業映画で作ってもしょうがないんだけど、なぜか自主映画的な自由な空間になると活きるんですよね。で、浦井崇っていう人はああいう人なんですよ。自分はいいことをやってるつもりで、人を励まそうとかいろんなことをやって結果的にひどいことをやってしまうという。

◎<田中>ドリフの志村みたいな(笑)というか、スラップスティックギャグの主人公ってみんなそうですよね。チャップリン、キートン、マルクス兄弟。浦井崇本人がすでにそういうキャラなんですね。

●<高橋>そうそう(笑)。

◎<田中>クライマックスで誰が誰だかわからないくらいにとにかくみんなでメッタやたらに斬り合うということになってしまうんですが、去年レニー・ハーリンの『エクソシスト・ビギニング』を見たら、映画の最後の方で、アフリカの原住民と侵略者が戦闘体制で距離をとって睨み合っていたのが、悪魔の仕業で戦闘に火がついてしまって、交戦しているうちに敵じゃなくて味方同士で殺しあってる、という場面が出てきたんです。高橋さんが見ていたら、どう思うのかなぁと聞きたかったんですけど。

●<高橋>いや、僕『エクソシスト・ビギニング』は見てないです。
あれ(『ソドム』のクライマックス)はわかんなくなってああなっちゃったっていうわけじゃなくて、敵味方で最初殺しあっていたんだけど、もう敵味方という対立項すらどうでもよくなった、という。永遠に殺し合いをやってれば?ってことなんですよね。「もう最後は敵も味方もなく殺しあいをやるんだよ」って言ったら新谷さんが、「今のイラクみたいなもんだからいいんじゃないか」って(笑)。だから、あれはある種のメッセージ性はあるといえばありますよね。もう最後まで殺しあえば?っていうひどいメッセージだけど(笑)。

◎<田中>妙に突き抜けたテンションで、熱かったですね。


【3.ルサンチマンとビザールと】
◎<田中>さきほどからもチラッと出てきていたホームページについてなんですが、かなり高橋さんがテキストを書いてらっしゃって、新谷さんとの往復書簡なんかもすごく白熱して、いまもう二人だけの議論じゃなくって、いつの間にか「世界ソドム会議」になっている(笑)。あれも大変だろうなと。

●<高橋>あんなに大変だとは思ってなかったですね。エライことに巻き込まれてしまったって言うか(笑)。ホームページやりましょうって新谷さんが言いだしたんですけど、僕はそんなにやる気なくて。そもそもそんなにパソコンに詳しい人間でもないんで。新谷さんも詳しくないんですよ。最近パソコン買ったらしいんですけど、でも思いついた時には持ってない(笑)。
『ソドム』の現場で思ったんだけど、現実をよく分かってるのは若者だって。僕と新谷さんはよくわかってないのね。ホームページを製作していくことがいかに大変か若い人たちはよく知ってるんですよね。でも上の人たちが言ってるからやるしかないと。で、ものすごい大変なことになる(笑)。僕らも最初に知ってたらそんなこと言わなかったよねって(笑)。まあ、それは撮影の現場もそうだったんですけどね。

◎<田中>そうですね、僕たちもホームページとか上映会のパンフレットとかやってますけど、やりはじめてわかるんですよね、ああいう大変さは。高橋さんは美学校映画祭なども積極的にされていますが、今の時点の映画美学校のいい点と悪い点を教えて下さい。

●<高橋>みんなが自主映画をつくる時の拠点になったらいいなと思って始めたし、そういう人たちと関わっていくのも楽しいだろうと思って講師も引き受けて、確かに楽しかったんです。でもその一方で、学校と名乗ってしまった途端に生じてしまうある権威主義的なものが発生してしまった。僕らは教育などという大層なことをやるつもりはなかったんですけれども、先生と生徒という関係ができた途端に権威的な言説というものが生まれ、それに従いたがる人たちも生まれてしまった。権威になりたくない、と強く思っていても、それをある価値基準にして行動している人たちがいる以上自分は権威になってしまった、という不自由さ。これは逆説ですよね。まったく対等な立場でものを言い合えたら、それは面白いなって思ったけど、それはありえないんだということを痛感しました。あと、生徒がほんとは何を考えてるかは絶対に先生の前では言わない。先生が絶対いじめの現状を把握できないのと同じ様なことだよね(笑)。期せずして教育なるものの現場に足を踏み入れてしまったんだなという恐さもありました。
で、これは制作実習のカリキュラムをこなさなきゃいけないという性質上どうしようもないんですけど、四人の監督を選抜することをやらねばならないのでやるんですけど、やると結局それが権威的に機能してしまう。権威付けされた才能である生徒が映画を撮る上で他の人々がスタッフとして参加する、というまぁ"プチ撮影所"のような空気にだんだんなってくる。教えている側は誰も「何々組とプロは名乗るんだ」とか教えてないんですよ。でもみんな自ずとプロの現場なんかに行って聞き知っていて、やれなんて言ってないのにプロのシステムに過剰適合するようになっていくんです。いかにその形に適応するかが大事であるというふうになってしまって、「いや、そうじゃない、自分たちのつくり方をあみ出すことが大事なんだ」っていう視点は抜け落ちてくる。「ある権威に認められちゃったら、それでいい」となってしまうとその外側を考えられなくなってしまうという問題は感じてますね。それから、集まっている講師陣のカラーのせいか(笑)「批評空間」とかある種シネマなるものの価値観をあらかじめ選択して信奉している人たちが集まってくるという傾向はどうもあるらしくて。実際はそうでもないんだけど、やっぱりハタからはそう見えるみたいで。ただそういう価値観は、これも一時期井土紀州さんとよく話したんだけど、それだけで映画をやってゆくと、ドンドン狭くなってゆくと思うんですよ

◎<田中>高橋さんが学生ぐらいだった当時以降はもう・・・。

●<高橋>僕らの時代にはもちろん(そういう価値観は)強烈にあったけれども、蓮實重彦なんか今の若い人はなんでもないだろうと。もうそういう奴は来ないだろうと思ったらさにあらずで。

◎<田中>いや、読まれていますよ、今も蓮實重彦は。

●<高橋>もちろんまったく無自覚な人もいるんですよ。そういう人のナマの自分を出してきたようなものの方がむしろ面白かったりもするんだけど、片方で権威付けられた知の大系からものを言う人が同じ生徒にいたりすると、やっぱり負い目やプレッシャーを感じるみたいで、ものすごく知の権力というのは強力なもので、多くの人を沈黙させてしまうから、それを壊そう壊そうとこっちもしているんだけど、そんなに簡単に壊れるものではないんだなと。

◎<田中>今、分かりやすい例だし実際影響力が絶大だからということもあって名前が出るんだと思うんですけど、蓮實重彦自体が権威的なんではなくて受け取る側にもいろいろ問題があって権威的になってしまったっていうところがあると思うんです。

●<高橋>もちろん蓮實さんの言っていることが圧倒的に面白かったからこそみんな読んだんだし、それでいろんな映画を発見したんですよ。だから彼の言葉のある種の正しさが多くの人を納得させるものがあったからなんですけどね。

◎<田中>諸刃の剣みたいなものですよね。それだけ求心力があるということで。そこで与えるものと与えられるもの、みたいな上下が出来てしまう。与えられる方は思考が停止してしまって・・・

●<高橋>ある強い求心力を持つ価値観が生まれたら、あとはそこで語られているシネマにいかに近付けるかっていう一元論になるしかない。ある価値観のもとにみんな右へ倣えを始めてしまう。そうするとそれを保証してくれる形式をみんなが選びとろうとする一種の形式主義が蔓延してしまって、同じような画を撮ったり、同じような好みの映画の名前を挙げて自らをアイデンティファイしていくという傾向がどうしてもできてしまう。そういうのを壊して「もっと多様でいいのだよ、いくつもの矛盾する価値観が混在していいんじゃないか」ということを訴えるにはどうしたらいいかっていったら、じゃあ美学校映画祭をやってみようと。柄谷さんが言っていた「くじ引き方式」に近いかもね(笑)選抜しないで全部やるよって(笑)。まったく無謀な映画祭をやろうと。そこで面白いのが出てきたら積極的に公開の機会を与えていくというのでいいんじゃないかと考えたんですよね。「映画番長シリーズ」も今はユーロスペースが制作費を出して、そこで生徒に撮らせてデビューさせているんですけど、今回やってみて思ったのは、安里や清水のように商品をつくる方に特化してる人はそういうシステムでもいいけど、そうじゃない形で出てくる資質の人も絶対にいるわけです。それを「ホラー番長の一本の形にならないとダメだ」とかいうよりは、もうレイトショーでいいから、映画祭で見つけた面白いやつがあったらそれはもう何のジャンル括りもいらない、ただレイトショーでかけて、そんなに宣伝もできないけどある一定の人たちに認知させるっていうような。
だからユーロスペースは制作費は一銭も出さない、そういう純粋自主映画に近いようなものも混ぜていった方が、人をデビューさせていく場としてはよりキャパシティーが広がるんではないかなとも思うんですけどね。あくまで個人的な考えだけど。堀越さんはもっと別の考えを持ってるかもしれないけどね(笑)。

◎<田中>昨年本(『映画の魔』青土社刊)を出されたのを踏まえて聞きますけど、高橋さん自身が権威になっていくっていう危惧はありますか。

●<高橋>う?ん、どうなんだろうなぁ。僕はあれを読んだ人がどう思うのかわからないんですけど、ひょっとしたら映画本初のトンデモ本じゃないかって危惧はちょっとあって(笑)。多分誰もあれを真面目に読まないだろうなと(笑)。だからそんなに権威的に機能しないでほしいな。面白がってあそこからものを考える材料を拾ってくれるのはいいと思うんですけど。っていうかあれでなんか規範化できるんですか?

◎<田中>どうですかね?

◎<青木>う?ん・・・難しいと思うけど、でも機能すると思いますね。

● <高橋>ええっ!いやだなあ。そうですか。

◎<青木>でもたとえば、本屋さんの映画本の棚をこうずっと見ていくじゃないですか。そうすると浮いてますもの、『映画の魔』というタイトル自体が(笑)。やっぱり飛びついちゃった人はわかっちゃいるけど、そういうふうに見ちゃうところはあると思いますよ。

◎<田中>"ルサンチマン"って思いっきり高橋さん自身掲げちゃったりしているところもあって、でもルサンチマンって結局権力になるっていうところがあるじゃないですか。

●<高橋>(「ルサンチマンの逆襲!」と書かれた上映会のチラシを見て)現代思想の人たちはいかにルサンチマンになってはいけないっていうことを必死にやっているのに、"ルサンチマン"と銘打ってるこのしょうもなさというか‥‥(笑)。でもアンチでやってはいないんですよ。みんな頭のいい人は避けているのに、どうして俺はこうなっちゃうんだろうって。ちゃんとそういうのも読んでるんですよ『批評空間』とか一応(笑)。でもそっちみたいにならない自分に正直であるしかないって思っていて。
たしか『図書新聞』で阿部嘉昭さんが書評を書いてくれて、誉めてくれているんですけど、でも気をつけないとある種権威的に機能する可能性があるとは指摘してはいました。で、著者である僕の本質は"ビザール"であると書いているんですが、ビザールって悪趣味とかそういうことですよね(笑)。だからひどいことになるだけだから、みんな真似しない方がいいってことを阿部さんは言ってくれてるんだと思うんだけど...。

◎<田中>多分、真似はできないと思うんですよ。高橋さんが勧めていた映画を見て、高橋さんが「この映画でこういうものを見た」っていうのがそのままストレートに見えることがないんですよ。なぜかは分からないんですけど。観てみて圧倒されたりはするんですけど、よくよく考えてみて「あれ、そういえば高橋さんが言っていたあれは・・・」と。だから、蓮實さんの書かれる文章のように機能することはない。それはやっぱり高橋さんの視点であって、そういうところは妙に規範とかにはならないですよね。

●<高橋>やっぱりそんなに印象違いますか?よく言われるんですけどね。「言われてあの映画を見てみたけど、違う」って(笑)。


【4.パソコンのモニターである必要はない】
◎<田中>高橋さんと新谷さんとの書簡を読んでいると、僕は新谷さんの方に近いかなっていうのもあるんですけど...でも新谷さんの宮崎駿の話なんか読むと「ええっ!?」って思ったりもするんですけどね。

●<高橋>新谷さんは普遍的なことをちゃんと言ってきたと思いますね。

◎<田中>『黄金バット』や『バンパイヤ』(手塚治虫)の話をしながら、一方でプロレタリアートの話を出してたりされてて、『黄金バット』や『バンパイヤ』を知らない人でも面白く読めると思います。

●<高橋>そんな感想サイトに書いて下さいよ。常連の人達が濃い話をしすぎると、周りの人が入りづらくて...だからといって薄くするわけにもいかないし。谷岡雅樹さんが「映画芸術」に書いてましたけど、ネットで世界が繋がるなんてのは嘘で、たこつぼ化が広がるだけだというのは本当にそうだなぁと感じてます。
ネットを使って人をサブリミナルで洗脳して操るとか、まともな商業映画でやると古いとかって言われそうだけど、マブゼ物で、ホントにくだらな?い、どうでもいいような感じの作戦としてやると面白いかも知れない。マブゼ物って本当にひどい作戦しかないんです。ただ、やっぱりああいうマブゼみたいな映画を見ているとローテクにこだわりたいと思っちゃいますね。字を打ってるとディスプレイから内臓がドーって出てくるとか(笑)。『ヴィデオドローム』とおんなじことをパソコンでやるとかね(笑)。

◎<田中>パソコンのモニターである必要がない(笑)

●<高橋>全然ない(笑)。かつてテレビはいかにも臓物の様なものが入ってそうなデザインしてたじゃないですか。今のパソコンは液晶薄型で何も入ってませんて感じがするけど、ああいうのを見たらかえって臓物が飛び出したら面白いだろうなって気がしますね。

●<高橋>ちょっと逆に聞いてみたいんだけど、『ミステリック・リバー』って大絶賛じゃないですか。人間がつくったものとは思えないとかって。あれはどうなんですか?空前絶後だっていう程だとは思わなかったんですけど。

◎<青木>僕はすごいと感じました。

●<高橋>そんなに今まで(イーストウッドが)やってたたこととは違わないっていうか。あそこまで白っとびしていい画面を見せてくれたというのはひとつの別の基準を見せられた気がして、それはそれで面白かったんですけど、なにもそこまで騒がなくても。そんなに痛い話だとは思わなかったんですよね。周りの人は「痛いなぁあの話は」って言ってたけど。これは最近の映画、『スパイダーマン2』とかにも感じることですけど、主人公なりの人がある痛みを感じている、というのに感情移入して感情を共有しているという時の尺が長い。みんなすごく繊細になっているのかな。以前はもっとブツブツ問答無用に物が進んでいたはずなのに、「ちょっと待って、みんなここでじわーっと感じよう」という長さがあって・・・抗ってもしょうがないのかな?抗うとジョン・カーペンターみたいになってしまうのかしら?

◎<田中>黒沢(清)さんの新作『LOFT』でもラブシーンがあったりするみたいなんですけど、まあそういうところは黒沢さんはうまくとりいれて自分のものにしてきている感じはありますよね。高橋さんもこれから商業映画の企画で撮られる予定が2つほどあるということですけど、そういうところも考えてられますか?

●<高橋>僕自身は感情移入っていうことは今までの仕事でも絶対やってないんですね、お客さんを引き込む吸引力は物語の構造で仕掛けるべきであって、感情移入で進めていきたくないなって。でもそれは世の中とは逆の方向で、マイナーになってしまうし、じゃあどうしようかなというと...。でも逆に『下妻物語』のようにキャラがちゃんと描けていて、それでいてキャラが強い(特に土屋アンナ)から、あれは王道だなぁと思います。

◎<田中>それじゃあ、"地下映画"の方での活躍というのも随時進行していくということですね。

●<高橋>そうですね、商業映画をやればそれはそれで大きな体験だけど、また反動で地下映画に針が振れるに決まってるしね(笑)。そうやって行ったり来たりしたいんですよ。それが一番楽しい。


2005年2月6日 プラネット映画資料図書館事務所にて収録
取材:青木拓雄、田中誠一
構成:松浦勝一、田中誠一