「往復書簡」で新谷さんと森崎東をめぐって議論したわけですが、あれがさらに「新屋根裏部屋」のBBSで岡本喜八をめぐる議論へと展開し、このきわめてスタンスが似通っていると思われる二人について、新谷は森崎映画にある「押しつけがましさ」を感じ、高橋は喜八映画に「押しつけがましさ」を感じていた。「押しつけがましさ」というのが一つのキー・ワードとして出てきた。で、これは「早わかり?」の「ソドムを見た人々」でヒバリさんが問題提起していた「混沌を意図することの矛盾」ということとつながってくる論点なのではないかということで、これまた、以下、「新屋根裏部屋」より転載しておきます。
浦井崇装飾応援の『血と骨』を見たのです。浦井から聞いてた話と違うんで、僕は鑑賞態度を失敗したのですが、一方、ビートたけしが演じる粗暴なる男の姿を見ていて、そうだ僕は、彼がこの種の人間を演じる時にいつも押しつけがましさを感じていたのだよなあと思い出しました。新谷さんがいう岡本喜八の「お調子者」とは違うのですが、「お調子者」であれ、「粗暴なるもの」であれ、僕が両者に感じる押しつけがましさとは、つまり「予定」されているということなんじゃないか。これは他人事ではなくて、『ソドム』もまた、混沌が意図、目的化されている矛盾という批判もあるわけだから、この辺も先の氏原君の発言も絡めて「会議」で発展されないものかしら。
そのための補助線として言うと、『男はつらいよ』の寅は、さくらの縁談をまとめるという目的からドンドン逸脱して横に横にズレてゆきますよね。だがそれはハーポ・マルクスのようなメチャクチャではなく、無意識(この場合、近親相姦)の厳密な論理に従っている。それが押しつけがましくならないのは、その無意識が巧妙に隠されているからで(この辺は井川君が映芸で山田洋次の新作についても言及しています)、かつ寅が引き裂いたことで逆にさくらとヒロシはくっついてしまう。
これがもし森崎東であったら、(苦いタールとしての)無意識を、つまりは当事者であるオイチャンたちが感じてるものを観客に突きつけてしまうのではないか。その意図はあるいは押しつけがましさになってしまうのではないか‥‥、とも考えたのでした。
(註)「タール」とは、山田洋次が観客にオアシスを提供しようとするなら、自分はむしろ現実のタールを突きつけたくなる、という森崎東の発言を前提にして使った言葉です。
浦井崇装飾応援の『血と骨』を見たのです。浦井から聞いてた話と違うんで、僕は鑑賞態度を失敗したのですが、一方、ビートたけしが演じる粗暴なる男の姿を見ていて、そうだ僕は、彼がこの種の人間を演じる時にいつも押しつけがましさを感じていたのだよなあと思い出しました。新谷さんがいう岡本喜八の「お調子者」とは違うのですが、「お調子者」であれ、「粗暴なるもの」であれ、僕が両者に感じる押しつけがましさとは、つまり「予定」されているということなんじゃないか。これは他人事ではなくて、『ソドム』もまた、混沌が意図、目的化されている矛盾という批判もあるわけだから、この辺も先の氏原君の発言も絡めて「会議」で発展されないものかしら。
そのための補助線として言うと、『男はつらいよ』の寅は、さくらの縁談をまとめるという目的からドンドン逸脱して横に横にズレてゆきますよね。だがそれはハーポ・マルクスのようなメチャクチャではなく、無意識(この場合、近親相姦)の厳密な論理に従っている。それが押しつけがましくならないのは、その無意識が巧妙に隠されているからで(この辺は井川君が映芸で山田洋次の新作についても言及しています)、かつ寅が引き裂いたことで逆にさくらとヒロシはくっついてしまう。
これがもし森崎東であったら、(苦いタールとしての)無意識を、つまりは当事者であるオイチャンたちが感じてるものを観客に突きつけてしまうのではないか。その意図はあるいは押しつけがましさになってしまうのではないか‥‥、とも考えたのでした。
(註)「タール」とは、山田洋次が観客にオアシスを提供しようとするなら、自分はむしろ現実のタールを突きつけたくなる、という森崎東の発言を前提にして使った言葉です。