「シネマ」と呼ばれるもの(高橋)_世界ソドム会議_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch

■ 「シネマ」と呼ばれるもの(高橋)

 先の氏原君の発言に直接応えるものではないのですが、僕がいう「シネマ」なるものについて、説明して欲しいと「新屋根裏部屋」のBBSで求められ書いたものを、これも「会議」の論点になるんじゃないかということで以下、こちらにも転載しておきます。

 で、「シネマ」なんですが、どう書くのが一番簡潔か。たぶん包括的に言おうとすると、長くてややこしい話になるので、とりあえずとっかかりのようなことを書くんで、また新谷さんたち突っ込んでください。
 まずはヌーベルバーグ前史において、「映画とは何か」という問いかけがあり、それは「これが映画だ」としか言いようのない素晴らしいものとして発見された、ということがありますよね。それは何もヌーベルバーグ前史だけに特権的に起こったことではなくて、たぶんサイレント時代、映画の創生と共に、作り手も観客も、この表現媒体とは何なのか考えざるを得ず、やがてある価値観として発見される、ということがあっただろうと思います。で、この「これが映画だ」という素晴らしい発見がやがて「映画はこうあるべき」という権威的な規範として機能し始めた時、それをとりあえず「シネマ」と呼ぼうと、大ざっぱに言うとそういうことです。
 ただその「シネマ」が一つの価値観を代表するものとしてあり、一方にそれとは異なる映画として、ファスビンダー、ヘルツォーク、パゾリーニ、足立正生、岡本喜八、森崎東や、そしてホドロフスキーといった人々がいた、またB級サブカルが「シネマ」なる権威を撃とうともしていた、そういう図式のもとで作り手やコアな観客層がああだこうだ言っていられた時代はそれはそれでよかったのです。
 ややこしいのは、やがてこの本来は素晴らしいものであった「シネマ」なる価値観がひじょうに希薄な形でマスに浸透してゆき、幅広い観客層と作り手の間で美意識やらクオリティー感として共有されるようになっていった、ということですね。この辺から事態は息苦しいものになっていった。
 僕自身も初めてビデオに触れた時、まずはこれじゃ映画は撮れないと思いましたね。その意味で僕の中に「シネマ」なる権能は働いていたし、それはいわゆる「シネマ」かどうかはともかく、誰の中にも「映画なるもの」の価値観は働いているわけです。ところが次第にビデオで再撮した画面の面白さに気づいていったりといった形で、ビデオはまたビデオなるものの媒体性として発見され、表現手段になってゆく。しかしてその一方で、ビデオ機器メーカーはどういうわけか莫大な資本を投下して、ビデオを「シネマ」に近づけてゆこうとしたわけです。世間の大多数にとって、ビデオとフィルムの違いなぞそもそもどうでもよかったはずなのに。希薄なる「シネマ」の浸透は、こういう技術革新ともパラレルな形で何となく「映画っぽい」ものはこれだという感覚を決定していった(そしてどういうわけかヴィスタサイズが映画っぽいということにもなった)。
 その典型が、僕にとってはヨーロッパの映画学校を優秀な成績で卒業したであろう人々が撮る類の映像であって、つまりはクレルモンフェラン短篇映画祭で評価されるようなものです。そして何度も引き合いに出して悪いのだけど『殺人の追憶』の映像もまた、僕にはそう感じられる、ということですね。
 本当は「シネマ」は何かを代表するものではなかったはずなのですね。だからこそ「これが映画だ」としか言いようがなかったわけで、蓮実さんの「表層批評」も本当はそういう意味だったのだろうけど、テーマやストーリーじゃなくて画面そのものだという主張が、一種のフォルマリスム(形式が内容を決定する)として受容されてしまった。そうすると、ある形式が「シネマ」なるものを保証する、代表してくれるという話になってしまう。
 だが、これに抗して本来の「シネマ」への回帰を打ち出しても、それはやはり同じことの繰り返しになりそうだ。だからそもそも映画は表現手段なんだろうか、「表現」という次元から疑おうといったことで、ファスビンダーやヘルツォークやパゾリーニがもう一度注目されている、それがここ何年かの状況じゃないでしょうか。ただ単に規範からズレているということでもなく、また新たなる価値観を提示しようということでもなく。この辺が実に難しい言い方になってしまいますね。たとえばヘルツォークの『キンスキー、わが最愛の敵』は面白い。キンスキーがキャメラの真横に立って、グルッと体を反転させて、キャメラをにらみつけるようにフレーム・インしてくる、それを「キンスキーのひねり」とヘルツォークたちは呼んでいたというのが実に面白いのだけど、「だからダメなんだあ!」という声も当然あって、それも判る。ただそれが価値の相対主義じゃないことをキッチリ言えないと、やがてあやふやだが支配的に機能する価値を求める声が起こってしまうだろうと。
 ところで、今まで名前が出なかったけど、ケン・ラッセルという人がいましたね。僕はあの人だけは理解を絶しています。