急にソドムの市へ (氏原)_世界ソドム会議_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch

■ 急にソドムの市へ (氏原)

 『ソドムの市』についての議論がこのサイトで広がっていくのを楽しみにしていたのですが、広がらずに終わってしまったので、ちょっとだけ思ったことを書いてみます。こう全力で否定している人の意見を、ぼくは聞いてみたくて、ぼくが書いてもそんなには否定的にならないので、皆さんも、もう忘れているかも知れないですけど、是非、思ったことを書いてもらえればと思います。何の議論もないのはもったいないことなので。
 人から聞いたり、サイトに掲載された感想を読んだりした感じでは、どうも全体としては「話の筋が意外に通りすぎている。」とか「話を見せられているだけのような気がする。」という意見と、「中途半端にキチンとしているところと、そうでないところがあって、そのどちらに行こうとしているのか分からない」その反対というか、同じことを好意的にくみ取って「あえて、分かっていてはずした感じにしている」(好意的に解釈しすぎているような気もするが)あるいは、往復書簡に触れられていたように「感情移入ができない」というようなことが大体かと大づかみにまとめてみます。
 この最初の「意外に話の筋が通りすぎている」というのが一番聞いた中で面白いな、と思うんですけど。この「意外に」というところが最初みんなが思っていたのが、もっと破綻した仕上がりだった、ということなんだと思います。すっきりしているのは画にも言えて、『ソドムの市』には「撮れてしまった」感のある画がないように思います。個々の画は「撮れてしまった」ものなんだけど、全体としては「撮った」ものに見えてしまう。第一回の映画美学校映画祭で上映されていた山本さんたちの撮っていた『土蜘蛛仮面』なんかは、すごく「撮れてしまった」感に溢れていたし、それと併映していた警察官の映画の盗撮画像なども、素晴らしく「撮れてしまった」感じでした。ああいう「撮れてしまった」映像も、実はこのサイトのチャプター解説を読むと、いっぱいあったんじゃないかと思います。少なくとも、小学生の大野さんがうろうろしている映像は、だらだらと入れるべきでしたね。素材を見ていないので何とも言えないのですが、きっと最高に良かったんじゃないかと。あと新谷さんと小寺さんが河原で鳩食べているシーンはシナリオではインタビュー風にする、と書い
てあったのですが、それをやっていればもっと広がりあったのにと残念です。もっと撮っているうちに、何だか浦井さんが立ち位置だけじゃなくて、本当に分からないことを言い始めて、それでストーリーが変わる「撮れてしまった」ものが映画を支配する、ということがあっても良かったのかなと思います。(それと、ぼくもソドムのチャンバラもっと入れて良かったと思います。)
 それで、話が見せられているだけになるのは、大枠のストーリーが壊れないというか予定調和的だからかなとも思います。大枠というのは、テレーズとキャサリンの呪いが実現していく、ということなんですが、そのことをソドムたちはどう考えているのかがよく分からない。頭で「呪うぞ」というシーンがあって真ん中に「呪いです」という説明があって、最後に「呪いが爆発した」ということの間に、それが起こらない方が良いと思う人とか起こらない方向に出来事が進んでいくということがないんですね。だから、何だか見せられている感じになるのかな、と。まあソドムたちは呪われているから気にしないのかも知れないですけど、呪いが実現していく過程で誰にも信じられていないのに否応なく起こっていく、とても避けられない、という凄まじさはあまりないような気はします。
 そのことを、予定調和でなくしていく、という方向と予定調和を強化していくというのと二つ方法はあると思うんですけど、まずは、なくしていくほうは
 A-予定調和でなくする
  1. ストーリーの中に、対抗軸を作る。一つは呪いを押しとどめようとする人を作るということですね。それは全然新しい登場人物かも知れないし、渋谷教授かも知れない。ちなみに渋谷教授はソドムたちの犯罪を止めようとするけれども、呪いそのものは止めませんね。テレーズもそうです。そもそも呪っているのがテレーズだから。ありうるとすれば、ソドムそのものが一番利害があります。キャサリンとの現世における情を貫くなら、呪いの全てを払いのけなければならない。でも、それをやればやるほどどんどん事態が酷くなる、という展開は何だかすっきりしているような。そのまた逆は、ソドムがもう全然呪いなんかものともしないぐらい悪だ、ということだとどうかなと思います。テレーズとキャサリンの呪いの引力をはるかに振り切っていく、これが一番狙いに近いのかも知れないですね。
  2.演出の上で対抗軸を作る。まあ、最初に書いていたことなんですけど、もう話がやや勝手に転がっていくような余剰を画面の中に入れていくことによっても、収れんしていかないものにする、ということです。

 B-予定調和にする
   というのは、紙芝居的視点の極端な強調をするということになるのかと思います。人物は操り人形で舞台の上にいる。それを、平面的に見つめている。ということを、何だか振付けられている芝居を見ているような感じでずっと見せていくということならば、反対側に突き抜けているかと思います。人間的な要素は全て取り除かれているというか、取り除こうと努力して変な感じになっている、というのが良いかなぁと。そして、その呪いと宿命の構造をひたすらシンプルに描写していく、これはぼくは一番良いような気がします。

 というようなことを思いました。今更なんですけど、どうでしょうか。