で、やっとこさ杉浦茂にたどりついたわけです。そもそも話題をそこに持っていこうとして、「早わかり?」で一神教、多神教のネタを振ったのを自分で忘れてました。
さて、『映画の魔』の最終章で、杉浦茂を手塚や赤塚を生んだ未分化の混沌と書いた背景にあったのは、これまた中沢新一のこんな言葉でした。
「忍術にはなんの努力もいらない。この杉浦茂の認識は、子供にとってなぜ忍術というものが魅力的なのか、という秘密を解きあかしている。生まれたばかりの人間には、まだ空間の構造の認識というものがない。空間が三次元でできているとか、離れた場所を一気につなぐことはできないとかいう「局所性」の認識は、言葉や社会性の習得とともに、あとから身についてくるもので、生まれたばかりの人間にとっての世界は、もっと自由な可塑性があって、空間そのものがトポロジックななりたちをしている。そういうトポロジックな空間では、もののかたちも自由に変化していくことができる。子供たちは、少し成長して、漫画を読んだり、文字を読んだりできるようになっても、自分の体内には、こういう自由な空間の記憶を残している。そしてその記憶の空間は子供に欲望の場所をあたえ、そこをめぐって自由な想像力がはばたいていくことになる。
杉浦茂の、あの屈託のない、明るい忍者たちの自由に飛び回る世界というのは、じつは子供の体内に残されている、原初の世界のなりたちの記憶に、つながっているのだ。子供たちは、その世界をなんの努力もなく手に入れることができる。苦労して手に入れようとなんかしなくても、それはすぐにそこにある。そこは自由で、屈託がなく、いつも柔らかい快感に揺れている。責任感もなく、何がおこっても罰せられたりすることもない。忍術使いたちは、子供の体内に、そういう世界の記憶を目覚めさせる力をもっている」(『杉浦茂マンガ館』4巻解説)
「トポロジー」という言葉はなかなか難しいですが、でも言ってることはひじょうによく判ります。判るんだけど、反発もこみ上げてくる。僕は子供の視線で杉浦茂を読み得なかった世代だということは留保しつつ、「あまりにも恐ろしいモノに見える」と書きました。明るいとか、屈託がないとか、どうしてこういう風に、寿がれた雰囲気が漂ってしまうのだろうと。
中沢新一はこのあとの文章で、杉浦茂は原初の世界を現実の世界に従属させない、つまり、輪郭やアイディンティのある三次元の世界に一元化しないとして、二元論を展開してます。杉浦版『リョウサイ(漢字出ず)志異』の解説ということもあって、道教的なものと儒教的なものの二元論が、一つの原理への収束を阻み、「妖怪たちは、ルサンチマンの暗い心理とは、まったく無縁」で「日本の妖怪よりも、ずっとドライ」、杉浦茂の世界には「重くてつまらないものが侵入してこれない」となってくる。こうなると結局、「完結」しちゃうのですよね。杉浦茂の恐ろしさは語れなくなってしまうのです。まあ、ここは難しいし、『映画の魔』でもそこに踏み込むことは次の段階だと割り切った部分なんですが。中沢新一は恐ろしいもの、おぞましいものをそれと対象化する以前の、原初を語ろうとしているのだと思うんですが、原初がそもそも恐ろしいんじゃないかというのが、僕の根本の感覚なのでしょう。
で、もう一つの問題は、杉浦茂の恐ろしさを語れたとして、では、それが人に(つまり観客に)判って貰えるかどうかということです。以前、日活撮影所で新谷さんと『ピエタ』の準備をしているとき、新谷さんが『稲生物怪録』を持ってきたことがありましたね。ああ、本当に化け物が出るとはこういうことだろうなとか話しましたね。でも、これをこの通りやって見せても、観客は怖いと言わないだろうと。むしろ全然怖くないものとして、たとえば夏にフィルムセンターで見た戦前の短篇アニメのようなものとしてやれば、もの凄いモノが出来るかも知れませんが。ああ、新谷さんの言っていたフライシャー兄弟のベティ・ブープとはそういうものか? 結局、そういうアプローチしかないのだろうか‥‥。
『黄色い世界』ハルコネン
昭和30年代に広がった都市伝説の一つに、トイレで子供が「青い紙いらんかね、赤い紙いらんかね」と問い掛けられるという有名な話がありますが、自分が聞いたその話のバリエーションの一つに「黄色い紙いらんかね」という一言が付け足されるバージョンがありました。
で、黄色い紙を選ぶと「狂気の世界」に引きずり込まれてしまうのだとか。しかし「狂気の世界」というものが子供が狂ってしまうだけなのか、それともどこか別の世界に連れ去られてしまう事なのかは語られぬままでした。果たして子供はどうなってしまったのか?
自分が杉浦茂の80年代の短編や「円盤Z」を読んでみて感じたのは、子供がトイレから引き込まれた「狂気の世界」とは「ここ」だったのではないか、という唐突な思いです(狂気などというおどろおどろしい言葉が杉浦茂にそぐわないならば、「へんてこ」と言い換えるべきか)。
中沢新一が「重いものがない」という形で表現した動機や葛藤を欠いたまま冒険だけが繰り広げられる物語、原形質がたまたま人間としての記号を備えていただけに見えるキャラクターたち、意味不明の顔が描かれた背景。ボッシュの「悦楽の園」の中央画に描かれた奇怪なオブジェとその周りでポーズを決める男女たちが「信仰への情熱も無く、世俗的な意味や根拠を欠いたまましかしもうひたすらに満たされている」ように見えて、自分には激しく気持ち悪いのですが、杉浦茂の描く世界も、ボッシュの多幸症の天国めいていてやはり気持ち悪い。描き手の内面が少しも見えてこないのも恐ろしい。儒教や道教というよりもむしろこれは...。
で、自分も根拠なく思ったのが、もしかしたら昭和30年代トイレで子供たちが選んだ「黄色い紙」には杉浦茂のマンガが描かれていたのではないか、という妄想です。子供たちはぼっとん便所の裸電球の下でトイレの上から伸びてくる手に渡されるままに杉浦茂のマンガを読み続けさせられることになったのではないか。「狂気の世界」とはそうした事だったのではないか...?そういえばかつて古びた漫画本は便所紙として再利用されていましたが、その中に杉浦茂の漫画があったならば...。
高橋監督の問いかけに上手く繋がっているか不安な文章になってしまいましたが、とりあえず「円盤Z」を読んだ感想として書いてみました。いや、杉浦茂は未だ穴の開いていない巨大なこんとんで、作者から受ける印象を言語化していくのは「...のような」「...めいていて」を連発するという文章でしか近づけませんでした。本当に恐ろしい存在ですね。
さて、『映画の魔』の最終章で、杉浦茂を手塚や赤塚を生んだ未分化の混沌と書いた背景にあったのは、これまた中沢新一のこんな言葉でした。
「忍術にはなんの努力もいらない。この杉浦茂の認識は、子供にとってなぜ忍術というものが魅力的なのか、という秘密を解きあかしている。生まれたばかりの人間には、まだ空間の構造の認識というものがない。空間が三次元でできているとか、離れた場所を一気につなぐことはできないとかいう「局所性」の認識は、言葉や社会性の習得とともに、あとから身についてくるもので、生まれたばかりの人間にとっての世界は、もっと自由な可塑性があって、空間そのものがトポロジックななりたちをしている。そういうトポロジックな空間では、もののかたちも自由に変化していくことができる。子供たちは、少し成長して、漫画を読んだり、文字を読んだりできるようになっても、自分の体内には、こういう自由な空間の記憶を残している。そしてその記憶の空間は子供に欲望の場所をあたえ、そこをめぐって自由な想像力がはばたいていくことになる。
杉浦茂の、あの屈託のない、明るい忍者たちの自由に飛び回る世界というのは、じつは子供の体内に残されている、原初の世界のなりたちの記憶に、つながっているのだ。子供たちは、その世界をなんの努力もなく手に入れることができる。苦労して手に入れようとなんかしなくても、それはすぐにそこにある。そこは自由で、屈託がなく、いつも柔らかい快感に揺れている。責任感もなく、何がおこっても罰せられたりすることもない。忍術使いたちは、子供の体内に、そういう世界の記憶を目覚めさせる力をもっている」(『杉浦茂マンガ館』4巻解説)
「トポロジー」という言葉はなかなか難しいですが、でも言ってることはひじょうによく判ります。判るんだけど、反発もこみ上げてくる。僕は子供の視線で杉浦茂を読み得なかった世代だということは留保しつつ、「あまりにも恐ろしいモノに見える」と書きました。明るいとか、屈託がないとか、どうしてこういう風に、寿がれた雰囲気が漂ってしまうのだろうと。
中沢新一はこのあとの文章で、杉浦茂は原初の世界を現実の世界に従属させない、つまり、輪郭やアイディンティのある三次元の世界に一元化しないとして、二元論を展開してます。杉浦版『リョウサイ(漢字出ず)志異』の解説ということもあって、道教的なものと儒教的なものの二元論が、一つの原理への収束を阻み、「妖怪たちは、ルサンチマンの暗い心理とは、まったく無縁」で「日本の妖怪よりも、ずっとドライ」、杉浦茂の世界には「重くてつまらないものが侵入してこれない」となってくる。こうなると結局、「完結」しちゃうのですよね。杉浦茂の恐ろしさは語れなくなってしまうのです。まあ、ここは難しいし、『映画の魔』でもそこに踏み込むことは次の段階だと割り切った部分なんですが。中沢新一は恐ろしいもの、おぞましいものをそれと対象化する以前の、原初を語ろうとしているのだと思うんですが、原初がそもそも恐ろしいんじゃないかというのが、僕の根本の感覚なのでしょう。
で、もう一つの問題は、杉浦茂の恐ろしさを語れたとして、では、それが人に(つまり観客に)判って貰えるかどうかということです。以前、日活撮影所で新谷さんと『ピエタ』の準備をしているとき、新谷さんが『稲生物怪録』を持ってきたことがありましたね。ああ、本当に化け物が出るとはこういうことだろうなとか話しましたね。でも、これをこの通りやって見せても、観客は怖いと言わないだろうと。むしろ全然怖くないものとして、たとえば夏にフィルムセンターで見た戦前の短篇アニメのようなものとしてやれば、もの凄いモノが出来るかも知れませんが。ああ、新谷さんの言っていたフライシャー兄弟のベティ・ブープとはそういうものか? 結局、そういうアプローチしかないのだろうか‥‥。
『黄色い世界』ハルコネン
昭和30年代に広がった都市伝説の一つに、トイレで子供が「青い紙いらんかね、赤い紙いらんかね」と問い掛けられるという有名な話がありますが、自分が聞いたその話のバリエーションの一つに「黄色い紙いらんかね」という一言が付け足されるバージョンがありました。
で、黄色い紙を選ぶと「狂気の世界」に引きずり込まれてしまうのだとか。しかし「狂気の世界」というものが子供が狂ってしまうだけなのか、それともどこか別の世界に連れ去られてしまう事なのかは語られぬままでした。果たして子供はどうなってしまったのか?
自分が杉浦茂の80年代の短編や「円盤Z」を読んでみて感じたのは、子供がトイレから引き込まれた「狂気の世界」とは「ここ」だったのではないか、という唐突な思いです(狂気などというおどろおどろしい言葉が杉浦茂にそぐわないならば、「へんてこ」と言い換えるべきか)。
中沢新一が「重いものがない」という形で表現した動機や葛藤を欠いたまま冒険だけが繰り広げられる物語、原形質がたまたま人間としての記号を備えていただけに見えるキャラクターたち、意味不明の顔が描かれた背景。ボッシュの「悦楽の園」の中央画に描かれた奇怪なオブジェとその周りでポーズを決める男女たちが「信仰への情熱も無く、世俗的な意味や根拠を欠いたまましかしもうひたすらに満たされている」ように見えて、自分には激しく気持ち悪いのですが、杉浦茂の描く世界も、ボッシュの多幸症の天国めいていてやはり気持ち悪い。描き手の内面が少しも見えてこないのも恐ろしい。儒教や道教というよりもむしろこれは...。
で、自分も根拠なく思ったのが、もしかしたら昭和30年代トイレで子供たちが選んだ「黄色い紙」には杉浦茂のマンガが描かれていたのではないか、という妄想です。子供たちはぼっとん便所の裸電球の下でトイレの上から伸びてくる手に渡されるままに杉浦茂のマンガを読み続けさせられることになったのではないか。「狂気の世界」とはそうした事だったのではないか...?そういえばかつて古びた漫画本は便所紙として再利用されていましたが、その中に杉浦茂の漫画があったならば...。
高橋監督の問いかけに上手く繋がっているか不安な文章になってしまいましたが、とりあえず「円盤Z」を読んだ感想として書いてみました。いや、杉浦茂は未だ穴の開いていない巨大なこんとんで、作者から受ける印象を言語化していくのは「...のような」「...めいていて」を連発するという文章でしか近づけませんでした。本当に恐ろしい存在ですね。