>新谷さん
>「諸悪の根源は言葉による世界の分断にある」というのも逆に言葉(の効果)を信じているのかもしれませんし、なかなか難しい問題ですね。
そうですねえ。それは当時から感じてて、形をもった宇宙モデルとして認識できたのはそこまででその後は完全未分化の方向に突き進みました。格調高いというのも当時の自分としては非常に腹立たしかったですねえ。這いつくばって生きろと思ってました。実際問題一度入ったスイッチは自分でも、もはやどうにもならなくて酷い時は家の外にちょっと出るともう道に迷うんですよ。そんな事してたから2浪しちゃったんですけれど、予備校通う時など信号が恐くて本当に這いつくばらないと歩けないような状態でえらい事になってました。高校時代は沢山兼部してたんですが山岳部にも入ってまして、なんでか知らないけれど部長だったんですが山に登るのは俗世を捨てる事で死ぬ事と同じだと思ってましたね。だから「山に入ったら人生を考えなさい」やら「頂上を目指して登るとそこに開けた景色が素晴らしい」とか「向こうに見えるのが何とか山だ」とか教えてくれる顧問の先生にはいちいち本当に腹たててました。タルコフスキーの「ストーカー」では直接目的地を目指すと石化するので石を適当に投げてその方向に歩くんですが、そのように山登りするべきだと本気で思ってました。
それで幻視ですが最近はないですね。大学に入るくらいまで幽霊やら妖怪やら色んな物が見えたんですが、ここ最近は全くという程ないです。なんでないのかと考えてみたんですが多分もう言葉による分断を受け入れ、そして映画を作る事を全面的に受け入れたからだと思います。言ってみれば天才的な閃きよりも努力なんだと腹括りました。ただ当時みた宇宙モデルは現在も帰るイメージですね。それをどうやって具体的にして行くかそれをずうっと考え続けていると言って良いと思います。さてさて現在でも幻視の類いを色々見えてるんでしょうが、もう良い大人だからなんて事で完全に切り捨てた訳ではまったくなくて緩衝地帯のようなものが自分の中に出来たんだと思います。ネタが湧いたとかいうところで自分との距離を計っているように思います。それでも一番最後の幻視体験は彼女に酷い事を言ったなあと思って、ふと振り返ったら顔が溶けてたんですね。子供の頃から色々見てたんで、非日常的なものが周囲にいるのは普通だと思ってたんですが、知ってる人の顔が溶けてるのは本当に恐かった。後で彼女に聞いたらその時は本当にショックだったと言っておりました。飛び下り自殺でまさに今落ちている最中の人の顔はないと聞いた事があるんですが、絶望の淵に立たされた人間の顔は溶けるんだと思った次第です。彼女にはちゃんと許可とって書いてるんですが、改めてその節はごめんさい。もう化けて出るのは勘弁してね。
>氏家さん
新谷さんが書いてるんですが炎が外部から来たというよりは自分も他者も含めて個人の内部から出てきてたようです。勧誘についてですが「最近の音楽はセックスと暴力に溢れています」という新興宗教の勧誘を受けた事があったんですが「僕はクラシックと民族音楽しか聞きません」と言ったら一瞬のうちに諦めて帰って行きました。諦め早過ぎてむしろ潔ささえ感じました。塾の勧誘で呼び出された時も受験のための情報収集のつもりで行ったのですが、最初からあんたは駄目だと説教されたんですね。まあ自我に揺さぶりをかける訳でその上で塾に入るという解決策を提出する、なるほどなあって思いながら数時間ほど経ったら上の人が様子をのぞきに来たので次はどんな手で来るんだろうと思って浮き浮きしてたら、僕の顔を見るなり「この人はもう良いから帰して」と邪険に言われました。思うに勧誘する事に自覚的な人は自分の論理の限界も分かっているんでしょうね。だから確信を持っている人に対しては、自己の論理を覆されないよう周囲へのパフォーマンスを兼ねて切り捨てるのだと思います。
>「諸悪の根源は言葉による世界の分断にある」というのも逆に言葉(の効果)を信じているのかもしれませんし、なかなか難しい問題ですね。
そうですねえ。それは当時から感じてて、形をもった宇宙モデルとして認識できたのはそこまででその後は完全未分化の方向に突き進みました。格調高いというのも当時の自分としては非常に腹立たしかったですねえ。這いつくばって生きろと思ってました。実際問題一度入ったスイッチは自分でも、もはやどうにもならなくて酷い時は家の外にちょっと出るともう道に迷うんですよ。そんな事してたから2浪しちゃったんですけれど、予備校通う時など信号が恐くて本当に這いつくばらないと歩けないような状態でえらい事になってました。高校時代は沢山兼部してたんですが山岳部にも入ってまして、なんでか知らないけれど部長だったんですが山に登るのは俗世を捨てる事で死ぬ事と同じだと思ってましたね。だから「山に入ったら人生を考えなさい」やら「頂上を目指して登るとそこに開けた景色が素晴らしい」とか「向こうに見えるのが何とか山だ」とか教えてくれる顧問の先生にはいちいち本当に腹たててました。タルコフスキーの「ストーカー」では直接目的地を目指すと石化するので石を適当に投げてその方向に歩くんですが、そのように山登りするべきだと本気で思ってました。
それで幻視ですが最近はないですね。大学に入るくらいまで幽霊やら妖怪やら色んな物が見えたんですが、ここ最近は全くという程ないです。なんでないのかと考えてみたんですが多分もう言葉による分断を受け入れ、そして映画を作る事を全面的に受け入れたからだと思います。言ってみれば天才的な閃きよりも努力なんだと腹括りました。ただ当時みた宇宙モデルは現在も帰るイメージですね。それをどうやって具体的にして行くかそれをずうっと考え続けていると言って良いと思います。さてさて現在でも幻視の類いを色々見えてるんでしょうが、もう良い大人だからなんて事で完全に切り捨てた訳ではまったくなくて緩衝地帯のようなものが自分の中に出来たんだと思います。ネタが湧いたとかいうところで自分との距離を計っているように思います。それでも一番最後の幻視体験は彼女に酷い事を言ったなあと思って、ふと振り返ったら顔が溶けてたんですね。子供の頃から色々見てたんで、非日常的なものが周囲にいるのは普通だと思ってたんですが、知ってる人の顔が溶けてるのは本当に恐かった。後で彼女に聞いたらその時は本当にショックだったと言っておりました。飛び下り自殺でまさに今落ちている最中の人の顔はないと聞いた事があるんですが、絶望の淵に立たされた人間の顔は溶けるんだと思った次第です。彼女にはちゃんと許可とって書いてるんですが、改めてその節はごめんさい。もう化けて出るのは勘弁してね。
>氏家さん
新谷さんが書いてるんですが炎が外部から来たというよりは自分も他者も含めて個人の内部から出てきてたようです。勧誘についてですが「最近の音楽はセックスと暴力に溢れています」という新興宗教の勧誘を受けた事があったんですが「僕はクラシックと民族音楽しか聞きません」と言ったら一瞬のうちに諦めて帰って行きました。諦め早過ぎてむしろ潔ささえ感じました。塾の勧誘で呼び出された時も受験のための情報収集のつもりで行ったのですが、最初からあんたは駄目だと説教されたんですね。まあ自我に揺さぶりをかける訳でその上で塾に入るという解決策を提出する、なるほどなあって思いながら数時間ほど経ったら上の人が様子をのぞきに来たので次はどんな手で来るんだろうと思って浮き浮きしてたら、僕の顔を見るなり「この人はもう良いから帰して」と邪険に言われました。思うに勧誘する事に自覚的な人は自分の論理の限界も分かっているんでしょうね。だから確信を持っている人に対しては、自己の論理を覆されないよう周囲へのパフォーマンスを兼ねて切り捨てるのだと思います。