また氏原君へ質問(にいや) 質問にお答えして(氏原)_世界ソドム会議_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch

■ また氏原君へ質問(にいや) 質問にお答えして(氏原)

う?ん、氏原君の宇宙観というか、終末観『デビルマン』みたいですねえ。
『デビルマン』のラスト、空に描かれた天使達は、地球を無に返すためにやって来た神の軍勢なんだそうです。永井豪自身は、あまり説明的にしたくないという事で、その辺具体的に描いてないんですが。あのラストが「祝福に見える」と言うファンもいて、なんだかますます氏原思想とつながるような...。
しかし、そうなると高橋モデルと違って、人間と神はコミニュケーションを取れる事になる。高橋さんの神は、あちら側にいて人間からは感知できない。絶対にコミニュケーション不能の存在なわけで。氏原君の考えるのは、基本的にはキリスト教的な創造主(人格神)としての、また契約者(雇用者か?)としての存在なわけでしょうか。単に、予言者が化け物になって復讐に来るという、ジャミラみたいな感じなんでしょうか。どうも、にいや難しい文章読んでたら寝てしまうんで、聖書すら完読した事無いので、よく理解できんのですが。
しかし、氏原君の終末観。最後に神も人間も共倒れになるというのは魅力的ですね。なんだか嬉しくなります。宇宙と反宇宙がぶつかったら、大爆発を起こすという話もありますが。雇用者と被雇用者が喧嘩したら、会社が潰れる、という下世話な連想をしてしまうにいやです。
でも、氏原君的にはその終末の後は無いんでしょうか。それで全ては無になるんでしょうか。なにか、先の氏原書簡の「背後から還って来るモノ」の個人的救済、というか祝福というか、そういう個人的な世界観にも凄い説得力を感じるんですが。その個人的宇宙の「守護精霊」と終末観の「神」というのは別のモノなんでしょうか。以前氏原君が書いてた「世界の上に見張ってる奴がいる事と、ごった煮的な事と矛盾している気がしない」という話を思い出しますが。氏原君の中では、それが何となく両立してるんですかね。いや、いつも書くように我々は作家ですから、真理より面白さの方が優先されるわけで。別に矛盾無く首尾一環してなきゃならないわけじゃないんですが。また「背後から還って来るモノ」についても聞かせて下さい。それによって、氏原君は何か変わったのでしょうか。今でもそんな「精霊」の感触はあるんでしょうか。どうなんでしょう。

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質問にお答えして (氏原)

えーと最初に言い訳というか、たぶん、一般的に現代の人の頭の中でも、三つの立場があるのではないかと思います。一つは常識的に科学的にものを考える理性万能主義の側と、迷信と超常に限りなく魅せられている側と、そのどちらでもなくどちらでも良いや、と判断を放棄している真ん中の自我との三つです。常識からすると、人が人知を超えたものに部分的に支配されていることは容認し難い冒涜のような気がするわけで、実際、素直で常識的な側のぼくもあまり認めたくはないのです。なので、この二つの対立軸の真ん中で完全に調停するとか判断するとかいうことを諦めざるを得ない。この二つを調停する理論を求めてSF小説家フィリップ・K・ディックは長大で筋の通らない理論を構築してし切れないまま死んでしま
いましたが、たぶん、それは途方もない深淵へと至る問題系なので、その矛盾はそのままそーっとしておきます。
 というわけで、簡略に。
 最初に訪れた精霊は、自身の半身です。長い間身体に見捨てられて天上にいたので、あるいは、天上があるということが見捨てられていたので、その言葉を告げるために訪れたということです。つまり、無意識と言っても良いわけですが。意識のレベルが下がったので、精霊が入り込むスキができたのでしょう。後方のやや高いところから入り込んでくるというのは、あまり予想しない方角なので、それもスキを狙っている感じです。精霊は、半ばは空想によって補強されて語るので白昼夢のような、あるいは入眠前に見られるような半自動的なイメージと言葉の奔流が、幾分は意識によって制御されていることに近いものだと考えています。完全に意志を失って見ている聞いているということはなく、どこからどこまでが意識して
考えていることなのかが分からないということなので、それほど異常なことのようではありません。ただし、意識に反したことも精霊は言います。
 精霊が言うには、戻ってきた精霊はもう離れることはなく、また、今よりヒドイ精神状態に陥ることは今後はないだろう、ということでした。そのときは感動してましたが、この約束というのが非常にびっくりするというか、何でそんなことが確信を持って言えるのだとちょっと反感すら感じます。高橋さんは今より良いことはない、と聞いたみたいですが、ぼくは逆でした。しかもその言葉を信じているので将来に対して、それほど悪くはならないという明るい見通しがあります。理性に抗って、精霊は様々な言葉とイメージを送り届ける門のようなものになり、そこからふとしたスキをついて天国の感覚というか、おそらくこうなるであろうイメージが見えたと思うようになりました。いつもあるわけじゃなくてごく稀に感動と共に空想が広がっていく感じで、最初は、天国の完全性が伝えられ、次第に天国の侵略の様子に移り、最近では、怒りの日に起こることの言葉になりました。でも、それも、全然知らないことの伝達ではなくて、読んだことの反復なんじゃないかと思うのですが。
 無の後に、何が来るのかというと、とりあえず無のおもてを七つの多面体のようなものが漂っているというイメージがあり、その中には、ありうる時間と空間の全てが収められていて、その七つの中心に無の中から(無から除かれた?)力が集まってきて、上の方に流出します。それが、何なのかどこに行くのかは分からないんですが。
 で、やや話は離れますが、高橋さんも似たようなことを書いてましたが、無理矢理解釈すれば、力というのは全てに逆らうもの(アマノジャクなもの)のことだと言えるかも知れないです。それは「自由」ということではないです。ぼくは人間の素晴らしい「自由」とか「意志による選択」という概念に中学校の頃から違和感を感じていて、かと言って全てが決定されているとは思わず、人の根源にあるものは今あるものに逆らう「アマノジャク」だけなんではという感覚があります。「自由」という言葉には何かしら全てが可能となるかのような響きがあって、そんなことはないんじゃ、という反感が何となく出てきます。それは人間の「意志」でなし得ることに完全な自由ということはなくて、あるのは今あるものに逆らうことでは、と思うからだと思います。「意志」の力で立ち上がる人の姿に感動するのは、その「意志」というものが、その全てに逆らう力に達しているからで、その個人の目的意識の高さに還元されると違うような気がします。そう思うのは、きっとクラスでひどくいじめられている男の子がいて、その子に向かって女の子がもっとしっかりしてれば(意志を強くもっていれば)いじめられないんだ、というようなことを言ったのを見て愕然としたからだと思うんですが、そんなことで解決するわけがないのです。じゃあ、どうしたら良いのかといっても分からないし、ぼくは何も言うことは出来なかったのですが、しっかりしていればいじめられないとかそういうことではなかった。何という無責任な言動だ、と思ったことを鮮明に思い出します。
 それで思い出したことがあって、話が完全に飛んでしまいますが、ぼくが引きこもりになっていた頃、横浜駅近辺で新興宗教の勧誘が盛んに行われていて、よくぼくは横浜を徘徊して、その人たちと論争していたのですが、(はっとすれば、今こうして書いているのと同じような。)その中に、昔いじめられていたという人がいて、今入信している宗教の教えによるといじめられる人は、エネルギーが足りないからいじめられるのだ、と言うのです。だから、功徳を積みエネルギーを蓄えれば決していじめられることはなくなる、と彼は言うのです。そこで、ぼくはものすごい長い時間その人と議論を戦わせ始めて、とりあえずそのエネルギーってのは何なんだ、ということを問いただしてていったのだと思います。おぼろげですが。そのエネルギーさえあれば何にでも勝てるのか、例えば自動車にひかれそうになっても勝てるのか、とか、そういうくだらないことを聞いていたような。で、結局、個人の「意志」の話になったんですよ。どうやってなったのかを思い出せないんですけど。たぶん、君の言ってるのは「意志」を強く持てばいじめられなくなる、ということなのか、みたいな話になったのだと思いますが。それで、たぶん、そのことをはっきりさせるために、ぼくが自分より大きなものによって自分が動かされているとは思わないのか、ということを問いただしていったのだと思います。本当は、いじめられるということの深層にある学校という社会的なシステムについて話しをすすめるのが筋なのかも知れないんですが、なぜかそういうことになってしまった。そしたら、彼はそんなものは無いというんです。自分より大きなものが自分を動かすなんてない、と。ぼくは、びっくりしてしまって、じゃあ、そのエネルギーってのはどこから来るんだ、上から来るんじゃないのか、と聞いたら、違うというのです。何でも、その宗教は日蓮上人のストーリーを基盤に据えているらしいんですけど、日蓮さんからそのエネルギーは来るんだというんです。それって、つまり自分の上にでかいものがいて自分の考えの一部を支配するということでないの、と言うと。違う、考えではなくて、エネルギーが来るだけなんだ、と言う。そんな馬鹿な、それじゃあそれは信仰でも宗教でもない、とそこまではっきりとではないけれども、ぼくは思ったのですが、でも、それも宗教なんですね。(旧約聖書なんてイスラエルの土地をあげるよ、それが神との約束だから。というのが大きなメインテーマですね。)でも、ぼくはもう完全に驚いてどうにかして、ぼくの感じていることをこの人にも分かって欲しいと思って、色々言うんですけど全然分かってくれないのです。まあ、分からない方が普通なのかも知れないですが。そのうちに、その地区の勧誘者を締めているらしい位の高そうな男とその連れのもう一人の男がやって来て、ぼくらの周りに立ってしばらく見ていました。そのうちに、その位の高そうな方が、話しに割り込んできました。その辺で、ぼくはやけくそになっててそれこそアマノジャクな気分にかられて、逆にぼくの方がそいつらをまとめて改宗させてやる、みたいな勢いになって、我らの上には人より大きなものがいて、それが自分の代わりに考えているのだ、(無意識というものがあると認めるならば、そういうことを言っても間違いではない)と説いたら、その男が、奇妙な人の全てを否定するような硬い目でぼくをじっと見て「お前はあたまがおかしい。」と言い放ちました。それで横を向いて「こいつは頭がおかしいから、こんな奴の話は聞くな。」とぼくと話していた人に言いました。
 まあ、そういうわけで改宗作戦は失敗に終わったのですが、新興宗教の人に「頭がおかしい」と言われたのは、まあ確かにそのときおかしい感じではあったかも知れないけれども、ああ、ぼくの言ってることは新興宗教の人には通じないのだな、という衝撃として残っています。この人たちとどこかで通じ合えるのではと思っていたのかも知れないのですが。しかも、この話をしていたのは、ぼくが精霊が戻ってきたと思う前だったように記憶してるので、もとから考えていること自体は同じだっのかも知れないです。それで、その後、映画美学校に行って高橋さんが企画の講義で「自分より大きなものが降りてくる」話をしていて、ああ、別にぼくはおかしいというほどでも無かったな、そういうこと言い出す人もいるんだな、と
思ったのです。
 話が全然、違うところに行ってしまいましたが、全体としては、精霊というより無意識の言葉のもっとはっきり聞こえるものでは、と思います。
 あ、それと高橋さん『モーセと一神教』は読んでません。でも読むと思います。