ソドムの市」では美術のお手伝いをさせてもらっていた大門です。こちらでもよろしくお願いします。以下、自分の宇宙モデルについてお話したいと思います。
高校時代に「諸悪の根源は言葉による世界の分断にある」と思い込んだ時がありまして、言葉を覚えるのを意図的に放棄したことがありました。それで何をしてたかというと自動記述のように日記と絵画のようなものをひたすら描いて既に持っている言葉を純化させようとし後は脈略もなくビデオを見たり漫画を読んだりしてました。それで授業中はひたすら寝てたのですが、当時他にも気になっていた事があって1つは「人間は染み1つない真っ白な部屋に入れられると発狂する。」それと拷問の1つにあるらしいのですが「大音響の音楽を聞かせ続けると人は耐えることができない。」という事だったんですが、それで上に書いたような事を半年以上続けていたら具体的に無音の闇が迫ってきた。『恐怖の電話』のような大音響の真っ白な空間と、無音の闇は主体の基盤となる寄り辺がないという点で同じものだと思うのですが、ともかく自分に現れたのは無音の闇で、耐えられない、もうおかしくなりそうだ、もうおかしくなってるのか?と思ってかなり辛くなってきた時にその闇の中に大小様々な炎が燃えているイメージが見えました。寝てたのか起きてたのかも良く覚えていないのですが、自分自身が炎になって宇宙に浮いて、360度大小の炎に囲まれているイメージが実際に見えたんですね。それぞれの炎は必死になって無音の闇の中で燃えていて、それでもその向こう側に見えるのは炎の光も届かない相変わらずの狂いそうなほどの無音の闇なんですが、少なくとも自分自身は周りにある大小の炎に囲まれている事によって、その距離感や大小の差異によって、かろうじて自分を保てるような気がしました。
言葉を放棄しようとした事で未だに後遺症のような状態も残ってるんですが、これはやっぱり僕の宇宙モデルなんだと思っています。自分自身としては上下360度だった事が重要なので水平、垂直の対立では捕らえきれないのですが、どちらかというと多神教的なのではと思っているんですが、どうなんでしょうね。
『バベルのコミニュケーション』
なんだか大変な経験をしてますね大門君。禅や密教の修行を続けていると、いろんな幻を見たりトリップしたりすると言いますが。もしかして大門君、知らずにそういうスイッチ入れちゃったのかもしれませんね。
しかし「諸悪の根源は言葉による世界の分断にある」というのも逆に言葉(の効果)を信じているのかもしれませんし、なかなか難しい問題ですね。でも心配いりませんよ、にいや四十過ぎたら(昔からか...)どんどん言葉を忘れていって「あれ」「それ」ばかりになってます。もうどんどん言葉が純化されちゃって困ったもんです。
「あの、ほら、『七人の侍』の、ほら!」「黒沢?」「いや、そのリメイクの...」「『荒野の七人』?」「その監督の...」「レオーネでしょ」「いやいや、その名字と言うか、名前と言うか...」「セルジオ?」「そうそう、セルジオ・コルブッチ!」「...」「コルブッチのあれ、雪が降る西部劇、ほら!」「『殺しが静かにやって来る』」「そう! あれに出てた悪役の...」「クラウス・キンスキー」「そう!キンスキー、キンスキー、その娘は...」「ナスターシャでしょ」「それ、ナスターシャ・キンスキーって、キャサリン役の亜紀ちゃんに似てるよね」「...」とまあ、こんなもんです。あ、これって言葉の純化じゃなくて、単にボケてるだけか。しかし、本当にこんな感じなんで、バイト先で毎日一緒に働いている人の名前も忘れちゃって、困ってるんです。いちいち回り道をしないと言葉が出ない。なんだか言葉(特に固有名詞)を、何か別の物との関連でしか呼び出せない。
大門君の言う「純化」ってのはこんな物じゃないんでしょうが、ある意味言葉を放棄するという事はこんなジェスチャーゲームみたいにならないと考えが伝わらなくなるのかもしれません。いや、むしろ大門君は完全な言葉を求めてたって事でしょうか。誰にも誤解されない、テレパシーのごとく世界を共有できる、バベルの塔が出来る前の言語のような。そんな世界観を表現しうる、ありえない世界言語...。
しかし、完全なコミニュケーションを求めたあげく、完全に同化され得ない暗闇(他者、しかし自分を包み込む)を体験し、そこに自らと同じく孤独に燃える炎達(仲間、しかも他者でもある)を見る、というのは見事な宇宙モデルだと思います。格調高い。ああ、にいやと高橋は『黄金バット』の話ばかりしてたのに...。
今、『火星の人類学者 脳神経外科医と7人の奇妙な患者』(オリヴァー・サックス著 早川文庫 NF251)と、『掌の中の無限 チベット仏教と現代科学が出会うとき』(マチウ・リカール&チン・スアン・トゥアン共著 新評論)の二冊を読んでます。『火星の』の方は、数十年ぶりに目が見えるようになったけど、「見る」という概念がつかめないため、見えてても見えない人の話。完全な視覚記憶に取りつかれて、子供時代に過ごした村の絵ばかりを描く画家の話。自閉症ながら、人とのコミニュケーションを、論理的に(『スタートレック』のMr.スポックや、データみたいに)理解し、会社を経営するまでになった女性の話、などが載ってます。
その自閉症の女性(表題作「火星の人類学者」の主人公)は、人間よりも家畜(野生動物より、家畜)に親近感を感じ、言葉を超えたコミニュケーションを彼らと共有できるのですが、仕事は屠殺マシーンの設計なのです。なんだか矛盾しているようですが、彼女的には「動物達を少しでも死の苦しみから救ってあげたい」という事らしいです。読んでると、なんだか高橋さんが言ってた「天使の計画」というか、もしかしたら神様が地上に降りて来て、人間とのコミュ二ケーションに苦しんでいる姿かも、なんて思ったりします。人類は神の家畜だ、なんてSF的発想もありますもんね。『火星の』は、なんらかの怪我や疾病で、他人とのコミニュケーションが取れないまま生きて行かねばならない人達の記録で、いわば先の「言葉を純化し過ぎた」人々の話か...。もしかしたら、純化された言葉しか使えない「神様」達の記録なのかもしれません。
『掌の』の方は、科学者であるチン氏と、チベット仏教の僧侶マチウ氏の問答集です。「存在と非存在ー宇宙に始まりはあるか」とか「一秒の中の宇宙ー現象の相互依存と全体性」とか「理性と観想ーどうやって世界を認識するか」等々、異なる視点からの宇宙モデル検証の会話とでも言いましょうか。高橋とにいやの往復書簡を、もっと格調高く超ハイレベルにした感じ。まあ、我々は科学者でも宗教家でもありませんから、真理を追求するより、デタラメでもいいから面白さ優先で『黄金バット』の宇宙モデルに行ってしまうんですが...。
まあ、興味あったら読んでみて下さい。『火星の』の方は文庫で手に入りやすいと思います。『掌』の方は分厚くって、高い(三千八百円)ですから図書館にでもあったらどうぞ。
しかし大門君、最近そんな幻視はないんでしょうか。自分の中でそれは位置づけできたんでしょうか。また聞かせて下さい。
高校時代に「諸悪の根源は言葉による世界の分断にある」と思い込んだ時がありまして、言葉を覚えるのを意図的に放棄したことがありました。それで何をしてたかというと自動記述のように日記と絵画のようなものをひたすら描いて既に持っている言葉を純化させようとし後は脈略もなくビデオを見たり漫画を読んだりしてました。それで授業中はひたすら寝てたのですが、当時他にも気になっていた事があって1つは「人間は染み1つない真っ白な部屋に入れられると発狂する。」それと拷問の1つにあるらしいのですが「大音響の音楽を聞かせ続けると人は耐えることができない。」という事だったんですが、それで上に書いたような事を半年以上続けていたら具体的に無音の闇が迫ってきた。『恐怖の電話』のような大音響の真っ白な空間と、無音の闇は主体の基盤となる寄り辺がないという点で同じものだと思うのですが、ともかく自分に現れたのは無音の闇で、耐えられない、もうおかしくなりそうだ、もうおかしくなってるのか?と思ってかなり辛くなってきた時にその闇の中に大小様々な炎が燃えているイメージが見えました。寝てたのか起きてたのかも良く覚えていないのですが、自分自身が炎になって宇宙に浮いて、360度大小の炎に囲まれているイメージが実際に見えたんですね。それぞれの炎は必死になって無音の闇の中で燃えていて、それでもその向こう側に見えるのは炎の光も届かない相変わらずの狂いそうなほどの無音の闇なんですが、少なくとも自分自身は周りにある大小の炎に囲まれている事によって、その距離感や大小の差異によって、かろうじて自分を保てるような気がしました。
言葉を放棄しようとした事で未だに後遺症のような状態も残ってるんですが、これはやっぱり僕の宇宙モデルなんだと思っています。自分自身としては上下360度だった事が重要なので水平、垂直の対立では捕らえきれないのですが、どちらかというと多神教的なのではと思っているんですが、どうなんでしょうね。
『バベルのコミニュケーション』
なんだか大変な経験をしてますね大門君。禅や密教の修行を続けていると、いろんな幻を見たりトリップしたりすると言いますが。もしかして大門君、知らずにそういうスイッチ入れちゃったのかもしれませんね。
しかし「諸悪の根源は言葉による世界の分断にある」というのも逆に言葉(の効果)を信じているのかもしれませんし、なかなか難しい問題ですね。でも心配いりませんよ、にいや四十過ぎたら(昔からか...)どんどん言葉を忘れていって「あれ」「それ」ばかりになってます。もうどんどん言葉が純化されちゃって困ったもんです。
「あの、ほら、『七人の侍』の、ほら!」「黒沢?」「いや、そのリメイクの...」「『荒野の七人』?」「その監督の...」「レオーネでしょ」「いやいや、その名字と言うか、名前と言うか...」「セルジオ?」「そうそう、セルジオ・コルブッチ!」「...」「コルブッチのあれ、雪が降る西部劇、ほら!」「『殺しが静かにやって来る』」「そう! あれに出てた悪役の...」「クラウス・キンスキー」「そう!キンスキー、キンスキー、その娘は...」「ナスターシャでしょ」「それ、ナスターシャ・キンスキーって、キャサリン役の亜紀ちゃんに似てるよね」「...」とまあ、こんなもんです。あ、これって言葉の純化じゃなくて、単にボケてるだけか。しかし、本当にこんな感じなんで、バイト先で毎日一緒に働いている人の名前も忘れちゃって、困ってるんです。いちいち回り道をしないと言葉が出ない。なんだか言葉(特に固有名詞)を、何か別の物との関連でしか呼び出せない。
大門君の言う「純化」ってのはこんな物じゃないんでしょうが、ある意味言葉を放棄するという事はこんなジェスチャーゲームみたいにならないと考えが伝わらなくなるのかもしれません。いや、むしろ大門君は完全な言葉を求めてたって事でしょうか。誰にも誤解されない、テレパシーのごとく世界を共有できる、バベルの塔が出来る前の言語のような。そんな世界観を表現しうる、ありえない世界言語...。
しかし、完全なコミニュケーションを求めたあげく、完全に同化され得ない暗闇(他者、しかし自分を包み込む)を体験し、そこに自らと同じく孤独に燃える炎達(仲間、しかも他者でもある)を見る、というのは見事な宇宙モデルだと思います。格調高い。ああ、にいやと高橋は『黄金バット』の話ばかりしてたのに...。
今、『火星の人類学者 脳神経外科医と7人の奇妙な患者』(オリヴァー・サックス著 早川文庫 NF251)と、『掌の中の無限 チベット仏教と現代科学が出会うとき』(マチウ・リカール&チン・スアン・トゥアン共著 新評論)の二冊を読んでます。『火星の』の方は、数十年ぶりに目が見えるようになったけど、「見る」という概念がつかめないため、見えてても見えない人の話。完全な視覚記憶に取りつかれて、子供時代に過ごした村の絵ばかりを描く画家の話。自閉症ながら、人とのコミニュケーションを、論理的に(『スタートレック』のMr.スポックや、データみたいに)理解し、会社を経営するまでになった女性の話、などが載ってます。
その自閉症の女性(表題作「火星の人類学者」の主人公)は、人間よりも家畜(野生動物より、家畜)に親近感を感じ、言葉を超えたコミニュケーションを彼らと共有できるのですが、仕事は屠殺マシーンの設計なのです。なんだか矛盾しているようですが、彼女的には「動物達を少しでも死の苦しみから救ってあげたい」という事らしいです。読んでると、なんだか高橋さんが言ってた「天使の計画」というか、もしかしたら神様が地上に降りて来て、人間とのコミュ二ケーションに苦しんでいる姿かも、なんて思ったりします。人類は神の家畜だ、なんてSF的発想もありますもんね。『火星の』は、なんらかの怪我や疾病で、他人とのコミニュケーションが取れないまま生きて行かねばならない人達の記録で、いわば先の「言葉を純化し過ぎた」人々の話か...。もしかしたら、純化された言葉しか使えない「神様」達の記録なのかもしれません。
『掌の』の方は、科学者であるチン氏と、チベット仏教の僧侶マチウ氏の問答集です。「存在と非存在ー宇宙に始まりはあるか」とか「一秒の中の宇宙ー現象の相互依存と全体性」とか「理性と観想ーどうやって世界を認識するか」等々、異なる視点からの宇宙モデル検証の会話とでも言いましょうか。高橋とにいやの往復書簡を、もっと格調高く超ハイレベルにした感じ。まあ、我々は科学者でも宗教家でもありませんから、真理を追求するより、デタラメでもいいから面白さ優先で『黄金バット』の宇宙モデルに行ってしまうんですが...。
まあ、興味あったら読んでみて下さい。『火星の』の方は文庫で手に入りやすいと思います。『掌』の方は分厚くって、高い(三千八百円)ですから図書館にでもあったらどうぞ。
しかし大門君、最近そんな幻視はないんでしょうか。自分の中でそれは位置づけできたんでしょうか。また聞かせて下さい。