多くの人から呆れられているとも、バカなんじゃないかとも思われているらしいチャプター・ウンチクですが、もはや乗りかかった船なんで、最後まで書きます。
自分のことしか考えない人々
監禁されテレーズも蛇吉も自分のことしか考えていない。私はこういう人たちが大好きだ。実際いたら絶対に関わり合いたくないが、映画に出したらこれ以上面白い存在はいない。というのも人間は本当はこんな風に生きたいと思っているのだが、社会道徳やら倫理観やら世間体が邪魔して、出来ないまま一生を終えるのだ。だから彼らは人間たちの憧れだ。『蛇の道』もそういうことを考えながら楽しみながら書いた脚本で、私はあのエッセンスをこの場面にこめようとした。むろんはるかにバカバカしい形で。何でいちいちバカバカしい方向へと反転するのかは自分でもよく判らない。とりあえず「ギャグ」と呼んでいるが、これこそが世界の原初からある律動だと思えてならない。つまりそれは何某かの「私」の表明ではなく、私の体を通して、いかなる事前の判断も介入しない直截さで吹き出してくるものだ。松村博士だけは責任を認めるようなことを言っているが、いや、こういう人が一番タチが悪いのだ。どうせ死ぬからどうでもよくなって言ってるだけだ。もっとも松村浩行には一切そういう狙いは説明しなかった。彼はトコトン、誠実に演じてくれた。
こういう最低にヒドイ人間こそが最高の見世物だという感覚はいったい何に由来するか考えてみたら、『宇宙家族ロビンソン』のドクター・スミスのような気がしてきた。そうだ、私はドクター・スミスに会いたくて毎週あの番組を見ていたのだ。あのすべての災難の張本人でありながらまったく行いを改めることなく、毎週、災難を起こし続け、子供からもロボットからも完全に呆れられている、あの人に。しかし、ロビンソン一家の子供たちに最高の教育を施したのはドクター・スミスであったに違いない‥‥。
森崎東から"スカブラ"という存在を教えられたことがある。炭坑夫たちの世界では、地下暗黒の苦役のような労働の中で、一人だけ何の仕事もせず、くだらない与太ばかり飛ばし続けている"スカブラ"と呼ばれる道化のような存在が許されていた。それが地下で生き続けるための自ずと発案された知恵だったのだ。だがドクター・スミスは"スカブラ"ですらないだろう。もし、ドクター・スミスが地下にいたら、ただちに炭坑の地中深く葬り去られたに違いない。あまりにも迷惑だから。だから彼はこの世には存在し得ない人だったのだ。いつ宇宙空間に放り出されてもおかしくない、そしてみんなが「なかったこと」にするであろう、そういう人物が毎週堂々と活躍していることに、私たちは胸を打たれていたのだ。
もっとも黒沢清は『ソドム』を見て、テレーズをまったくヒドイ人間だとは思わなかったそうだ。むしろやってることが圧倒的に正しく見えたと。この印象は嬉しかった。おそらくそれは小嶺麗奈のあの迷いのない力強さが生み出したのだ。 ▲
3月10日
日めくりカレンダーを破ると「東京大空襲」の文字。マブゼ的な悪のテーマ曲が迫って、サイレンの響き渡るなか、搭乗員たちがB29に向かって走ってゆく。この一連の展開は音楽も含めて、私が20年前にさらなるマブゼ映画の勝手な続編を撮ろうと夢想していたショット群がほぼそのまま撮れてしまった‥‥。まったく信じがたいことだ。しかしまさか小水ガイラが操縦するとは‥‥。繰り返すが本当に信じがたいことだ。私はただ呆然となる。
あの巨大格納庫は取り壊し寸前で放棄されていたものを製作山川が見つけてきたのだ。『ソドム』は鉄の臭いが立ちこめるような場所ばかりで撮影されたが、あの空間は中でも圧倒的だった。実際は何が作られていた場所なのかさっぱり判らないが、とにかく忌まわしい兵器を作っていたとしか思えない。そこを駆け抜けるガイラ飛行隊の走りは完璧で一発OKだった。ガイラさんは飛行服に黒い前掛けをつけているのだが、あれはガイラさんが自分の店でいつもつけているものだ。『悪魔のいけにえ』みたいであまりにも格好いいので、意味もなくそのまま着て貰った。
東京大空襲こそが20年前に思いついたアイデアの根幹であったわけだが、私は東京大空襲の恐ろしさを、体験した母から聞いて育ったのだ。まさか若き日の岩淵達治もそれを目の当たりにしていたとは思わなかったが。しかし母は惨状を決して眼にしてはいないのだ。私が母から聞いた話が最も恐ろしかったのはその点で、まだ幼かった母は祖父から目隠しをされていたのである。だから母は音と臭気でしか東京大空襲を知らないのだ。何だか判らないが私を激しく揺り動かしたのはそこだ。私はいまだにこの話だけは人前で冷静に語ることが出来ない。で、そのせいなのか何なのか、私はこの母の話をすっかり忘れていたのである。そして福島音響で『ソドム』のダビングをしているとき、盲目のソドムは私の母とまったく同じ立場にいることに気づき、激しく動揺した。▲

B29
B29の機体はソドム一味と特撮班を兼任した近藤、渾身の力作。彼は操演も担当した。
戦中派の福島音響社長から、垂直尾翼に「B29」って書いてあるわけないだろと注意されたのだが、いや、それは私も近藤もよくよく承知しているのだ。誰が見ても判るように無理やりやったのであり、それこそが20年前に私が幻視したショットであったのだ。
もっともこの映画の常で、自分でもどういう基準か判らないのだが、妙なところが厳密にリアリズムだったりする。B29が中央線の軌道に沿って西から東京に侵入したのは史実の通りで、だから私は中央線がまっすぐ見えるあのショットに「何で真っ直ぐなんだ!」という憤怒を込めた。私にはあの真っ直ぐが呪わしい理不尽に思えてならなかったのだが、美術の山本は、何でそこまで真っ直ぐにこだわるのか、さっぱり判らなかったようだ。
コックピットはこれまた美術山本の魔法陣と並ぶ渾身の力作。私も新谷も驚く以前に呆れた‥‥。誰もこんな立派なものを想像していなかった。向きを変えるのに六人がかりで持ち上げねばならなかった。
格納庫からの出撃シーンでは、先日トークショーでも話した通り、まったく『ソドム』の現場を象徴するようなことが起きた。完成した格納庫のミニチュアから、近藤がB29を押し出そうとしたら翼の両端がつっかえた。冗談でも思いつかないことだ‥‥。格納庫を発注するとき、寸法を間違えたのだ。近藤が何の意味もなくメジャーで格納庫の寸法を測り直していたのが忘れ難い。頭の中が真っ白になった人は得てしてこういう行動をする。私も一瞬、真っ白になりかけたが、『ソドム』の現場とは、常にあり得ない事態を笑い、逆に追い風にすることがテーマであったのだ。ということで無理やり格納庫の支柱を突き破って出てくることに変更。すると不思議なことに、いかなる壁が立ちはだかろうが突き進む「悪」の凱歌というか、ど根性のようなものが出た。それは私が求めながら、なかなか出せずにいたことなのだ(『怪人マブゼの挑戦』にはハッキリそれがあったのだ)。「強い、絶対に強い!」まことに強運、結果オーライだらけの『ソドム』の現場であった。 ▲
防空頭巾
B29の爆音は、福島音響社長のこだわりで本物である。だから防空頭巾は、空襲など描く予算がないときのいわば象徴化の手法であると同時に霊的な意味をはらむ。テレーズも蛇吉も、ここでは本物のB29の音が呼び起こした亡霊たちなのだ。20年前にはまだ都内でも防空頭巾をかぶった幽霊たちは徘徊していた。だがもはやそんな目撃例を聞くことはない。不思議なことだ。幽霊を見なくなるということが、すなわちある生々しさ、リアリティの喪失でもあるということは。
この音自体が脅威として迫る薄気味悪さによって、「音による攻撃」のテーマはより明確になった。テレーズたちが懸命にクラクションを鳴らし、迫り来る音に対抗する光景も、すべて20年前に幻視した通りだ。まことに信じがたい‥‥。
テレーズが恍惚とB29を見上げる顔は、この映画の中でも最も重要なショットだった。60年前に人々はまさにあのような視線で夜空を見上げ、そしてそれは怪獣映画へと受け継がれたのだ。そうした器によってしか描き得ない視線をかつて人々は体験したのだ。 ▲
そして攻撃が始まり
事態はもはや混沌としている。あのトリガー・ワードは『怪人マブゼの挑戦』から拝借してきたものだが、ここには『火星人地球大襲撃』やら『スペース・バンパイア』やら『エクソシスト2』やら雑多なものがごちゃ混ぜになっている。
松明を持った暴徒たちの場面が、どうしてレインボーブリッジの見える東京のど真ん中で撮影が可能になったのか不思議でしょうがない。プロの製作の常識から言ったら逮捕されるに決まってると思うが、何故か許可が下りたのだ。すべて製作山川の踏ん張りのおかげである。もっとも、私は暴動シーンの撮影の最中も、許可が下りたというのは、あまりにも追いつめられた山川がもう一つの現実を作り出してそこと話をつけてきた幻想に違いないと疑っていた。とにかく撮れるだけ撮ったら全力で逃げようと。しかしどういうわけか誰も止めに入らず、津田寛治(これで映画番長すべてに出演)や『月猫』主演の勝矢秀人や実に大勢の人々が暴れてくれた。私はいまだにあの場面が撮れたのは何かのアクシデントだったんじゃないかと思っている。
ガイラ隊長の「じゃあ、足立区」は、そもそもこの映画が北野武の『座頭市』に対抗して作られたことを受けている。それにガイラさんはビートたけし主演の『ほしをつぐもの』の監督であり、ガイラさんとたけしと永山則夫がかつて同じ喫茶店でウェイターをしていたのは今や伝説的だが事実だ。
一応、この映画は経緯はややこしいが、サドからインスパイアされていることは間違いないので、初めのアイデアではガイラさんに『悪徳の栄え』の台詞をしゃべって貰おうとも考えていた。機上から炎の海を見下ろしたガイラ隊長は「ソドムとゴモラが本当に永遠の劫罰を受けたのなら、今でも死海の淵で炎が燃えさかってるはずだ。そうだろ? そうだよな? 何で燃えてないんだよ!」と隣の石住隊員にからんで、石住がすごく迷惑そうな顔をするという。何だか西山洋市みたいだが。そこでポーンと地球儀が出てきて、キャメラがシナイ半島あたりにググッと迫り、確かに死海の淵で炎が二つ、ゴウゴウと燃えさかっていたら格好いいだろうと。しかし、あまりに思弁的過ぎるので止めた。▲
さあ、魔法陣へ帰ろう
これはもちろん『悪魔くん』のメフィストが妖怪を退治した後、やれやれという台詞だ。私はこの台詞が耳に焼き付いて離れない。今でもずっとあの呼びかけは心の中で反復され、本当に懐かしい場所へと誘われているように思える。
テレーズがスクリーン・プロセスから飛び出してくる場面は、前夜、安里と秘かに語らい、どうなるかさっぱり判らなかったがやってみたのだ。やってみたら現場は一気に活気づいた。おそらく何がOKで何がNGか、その基準自体がぶっ飛んだからだと思う。映画が解放されるのはたぶんこういうときだ。黒沢さんも喜んでたみたいだし、こういうことはやった方がいいのだ。しかし、後で本人から言われて気づいたが、小嶺麗奈さんはこの日が初日だったのだ。我々はそれ以前からずっと撮影していたから、まるで考えていなかった。午前中は発砲スチロールの雪にまみれて地蔵和讃を歌わされ、午後はいきなりこれ。さぞやわけが判らなかったと思う。
夜の並木道は青山霊園で撮ったのだ。むろん、このようなショットを最初に撮ったのはラングの『怪人マブゼ博士』だが、私は8ミリの『夜は千の眼を持つ』以来、やらないと気がすまない。何故かいきなり車の屋根がなくなるのも同じ。ラングはチャンとオープン・カーを走らせているが、屋根がいきなりなくなってもいいのだと思い定めたのが、私が8ミリ体験から学んだことだ。ちなみにジョルジュ・フランジュも同じような並木道を出さないと気がすまなくなった人だ。『インフェルノ・蹂躙』は明らかにフランジュだ。とにかくこのように頭上を木立が薄気味悪く通り過ぎることが、私にとってさらなる異界へと飛躍する符帳なのだ。▲
松村博士の涙
ああ、これこそ私の姿だ。ある日、私は松村博士とそっくりのことを口走ったのだ。「何だかずっと夢を見ていたような気分だ」と。そしたらすかさず新谷尚之から「犯罪者はよくそう言うんですよ」と切り返された。そのやりとりをそのまま使った。
松村浩行はこの場面を撮るとき、何故か泣いていた。あの涙は演出ではなく、彼は本当に泣いていたのだ。私はわけが判らず、何で泣いているのか安里に尋ねると、とにかく出番を待っているときからずっと泣いているという。理由はどうでもいいという感じだった。確かにどうでもいいので、そのまま撮った。あの場面はスタッフからとても愛された。私はそれがひどく嬉しい。
刑事役の小嶋洋平は牧冬吉に似ているという理由で起用された。牧冬吉と言われて誰だか判るくらいの年齢だが、美学校スターシステム的には将来が期待される大型新人。とにかく松村に引導を渡すにふさわしい渋さだった。ちなみに『悪魔くん・河童の三平完全ファイル』の三平・カン子対談は牧冬吉の思い出にあふれ、涙なくして読めず。▲
地下世界
魔法陣と棺がポツンとあるが、ここはもはや空間のれじれた何処だか判らない場所だ。
「斬られると痛えぞお」はもちろん『用心棒』の台詞で、この台詞を書いた頃は大いにチャンバラをやるつもりだったんだが、だんだんどうでもよくなっていき、代わりにマチルダのデリンジャーが火を吹いた。デリンジャーの轟音は凄かった。やはりリヴォルバーはいい。浦井崇はもの凄く不満そうだったが、弾丸を弾き返す仕込み杖のさばきは、「映画秘宝」の田野辺編集長が絶賛してくれた。これで納得して欲しい。
ここでテレーズが歌い、キャサリンが和する。歌い出すとき、テレーズは紛れもない巫女となっている。井戸底で歌いながら絶命した二人が歌の力によって再び引き寄せられる。キャサリンが棺から起きあがる光景は、新谷尚之たちが懸命に持ち上げていたのだが、この世ならざるものを見るようだった。しかしその驚異を伝えるキャメラ・ポジションを探すのはやってみないと判らない大変さで、キャサリンは何度も何度も持ち上げられねばならなかった。思うに、エイゼンシュテインの『十月』の有名な橋が上がる場面は、本当によく考え抜かれて撮られている。
「地獄歌」の歌詞は各種地蔵和讃やら御詠歌やらのパッチワーク。歌詞を書くのは生まれてから二度目。本当に苦手だ。佐々木浩久はサラサラッと書いてしまうのだが。▲
地獄唄(作詞・高橋洋 作曲・長嶌寛幸)
六道輪廻の生を受け いずれの世にか救われん 眼に入るものはただ炎
いかなる罪や科なりや 血汐の池に泣く声は 八万獄に響くなり
めぐる因果に涯てもなく あわれ名もなき花となりて 永劫かけて香るべし
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東京を火の海にしたガイラ飛行隊も「地獄歌」に和する。だから彼らはソドムに操られたのではない。まったく独立独歩の存在なのだ。背景の炎は本物の壮大な野焼きの光景を撮影したもの。遠山智子が『アカイヒト』の素材映像から提供してくれた。
以下の撮影は地獄だった。体力の限界はとうに越え、それでもいっこうに撮り終わらず、もはやまったく違う次元に我々は入っていった。しかしこれを撮らなければ、この映画は終わってくれないのだ‥‥。

地中から生えてくる仕込み杖がいったい何なのか、ほとんど説明する言葉がないが、これは不動のアイデアだった。そうだ、言ってみれば、『修羅雪姫』で、吹きすさぶ雪がヒロインの復讐を応援するかのように深紅に変じる、あの瞬間に呼び覚まされるパッションのようなものだと思いつき、『修羅雪姫』を見直してみたら、そんな場面はなかった‥‥。
ライトもスタッフも写りまくりで回したチャンバラ場面をいったいどう編集するか、石谷も私も途方に暮れたが、不思議にもキー・パーソンになったのは、万田司祭であった。
そうだ、万田司祭について書くのを、「早わかり?」のチャプターで忘れていたのだ。とにかく司祭役は万田邦敏しかあるまいと最初から決めていたのだ。というのもはるか昔、まだ8ミリを撮っていた頃に塩田明彦から聞いたのだが、万田邦敏には立教時代、狙撃されてうろたえるローマ法王の物真似(そういう事件があったのだ)という凄い持ち芸があったという。私はそれを眼にしたことはないのだが、万田邦敏なら完璧にやりこなしたに違いない。そのせいかどうか知らないが、彼は青山真治の映画で確か、暗殺される教祖の役をやっていた。あの倒れ方も完璧だった。そんなわけで、現世でもあの世でもやっぱり頭を串刺しにされる連続ギャグを思いついたのだが、むろん、笑いを狙ったのではない。監視キャメラの視点で捉えた万田さんのくずおれ方はやっぱり完璧に陰惨だった。
万田さんと一緒に結婚式で惨死を遂げる北岡稔美は、毒杯を注いで回った張本人でもあるが、いつも現場で一番大変な役割を引き受けてしまう人で、こういう人が災厄をばらまいたら面白いから出て貰ったのだ。井川耕一郎の『伊藤大輔』の見事な編集をやったのは彼女だがあれも大変な役割であった。
で、話を戻して万田司祭によっていかなる編集のロジックが立ったかというと、彼が仲間である亡者に斬られる瞬間から、もはや敵も味方もない涯てしのない殺し合いの幕が開いたのである。撮ってるときは考えもしなかったのだが。万田さんがいてくれてよかった。何か御利益がありそうな気がしていたのである。

老人と花嫁
殺戮の涯てに謎の老人と花嫁がヌッと立っている。これも後で気づいたのだが、岩淵先生も花嫁役の今関さんも期せずして二人とも舞台人であった。だからおそらくこの場面には他と違うトーンが支配している。さらに飛躍した次元を感じさせる象徴的な何かが。
ゾンスト ニヒツ! ニヒツ!(Sonst Nichts! Nichts!)
岩淵先生には怒りをこめてドイツ語で叫んで貰った。はじめはニヒツ!ニヒツ!(何もない)だけだったのだが、岩淵先生がゾンスト(他には)も言った方がいいのだと提案して、そうして貰った。やっとラストまで編集が終わって、私はハタと「ドイツ語だと観客は何を言ってるか判らんな」と気づいたが、ふだんは冷静な木暮が「今さら何を言ってるんですか」と本気で呆れていたので、字幕スーパーは入れないことにした。妄想は妄想のまま伝えた方がいい。
B29の旋回はつまり映写機のリールと同じだ‥‥。このB29だけは8ミリで撮り、8ミリ映写機の音をかけた。8ミリで撮るのはもはや賭けだ。露出やサイズを変えるごとに、近藤は長い棒の先に固定したB29に何度も大きな弧を描かせねばならなかった。ちゃんと写っているかどうか不安だったが、まったく幻視した通りの画面がそこにあった。ゆるやかにかけたズームの効果でB29の機影は本当に遠ざかってゆくように見えた。信じ難いことだ‥‥。▲
カーテンコール
本当は「合掌」で終わるつもりだった。「完」でも「終」でも「劇終」でもなく「合掌」で終わる映画は(たぶん)なかろうと。私はエンディング・ロールが大嫌いで、映画はもっとキッパリ終わってほしいのだ。ところが編集が進むうちに、カーテンコールをした方がいいという気持ちが次第にこみ上げてきた。押しつけがましくならないかどうか不安だったが、いや、この映画はやってよいのだという気運がスタッフの間に自然に生まれた。テレビで洋画番組が終わった後に流れる、あの消え去った世界への郷愁をかき立てるようなクレジットがイメージだった(それを新谷尚之的に翻訳すると『キーハンター』のエンディングということになる)。
カーテンコールのアイデアが最初に浮かんだのは、B29の離陸を見て、ソドム一味がキャホキャホ飛び跳ねるショットを撮っているときだった。何と言えばいいのか、まるで『七人の侍』の七人全員が丘の上に並んでいる有名なスチルを見たときのような気分になったのだ。西山洋市にそう話したら、さすがに理解し難かったようなのだが、あれは彼らが最も幸福だった瞬間であり、同時にそれは恐怖写真でもあるのだ。それは『バンパイヤ』の主題歌や『新八犬伝』の「夕焼けの空」に流れる、あり得ない連帯のテーマと通じ合っていた。だから『ソドム』はこのショットとともに消えてゆく。終わるというよりは消えてゆくのだ‥‥。▲
