ソドム車はいつの間にかベンツからBMWに変わっている。しかし、エンブレムは同じ「S」マークだ。どんな車であろうが、「S」を貼ったらソドム車、それが「ソドム」精神である。
で、氏原が出てくる‥‥。ソドムの子供時代、ただ独り、空き缶の置き方に不吉な予感を覚えたあの少年だ。つまりけっこう賢いのだが、一方でもの凄く善良で正直者という、氏原はそういうキャラクターだ。実際の内面は知らない、だたにじみ出るようにそう見えるし、その存在を写し取ればそれは映画の力になるという、アテ書きの方法論がここでも試された。
現場にやってきた氏原は、初めはまっすぐ歩けるかどうかも判らない人に見えた。中原翔子の不安な眼が「何? 今度は、誰を連れてきたの?」と私に問うていた。「いや、大丈夫です。経済学の本とか読んでる人ですから」と私も思わずわけの判らない説明をして、とりあえず動きの方は氏原も呑み込んでくれたが、台詞はまるで棒読みだった。もとより演技力を期待しているわけではない。あのキャラクターを引き出せばいいのだ。それで「ソドムから包みを手渡されるよね。極悪人だということは知ってるわけだから普通、疑うでしょ。でも君は人からものを頼まれたら、誠心誠意それをやり遂げようとする人なんだよ」と言ったら、たちどころにつかんだみたいで、本当にそういう人になってくれた。一瞬にして芝居の空気が変わり、何か真を打つものが現れた。まったく立場の違ってしまった二人の間に生まれる奇妙な情感。氏原はソドムがどんなに憧れてもなれなかった存在なのだ。スタッフの多くがこの場面を気に入ったようで、みなここを「氏原のシーン」と呼んでいた。「市ちゃん!」という彼の呼び声も不思議な切実さでみなの心に強く残り、やがてクライマックスで甦ることになる‥‥。
ちなみに氏原はパゾリーニ
の『奇跡の丘
』に影響を受けて、何やらキリストの話を撮ってるらしい。私もあの映画が好きだ。ゴダールも『映画史』
で引用していた場面だが、ライ病患者の顔が一瞬の切り返しできれいに治っている、あの単純・素朴なカット割りには深く打たれた。ウソみたいに簡単なことなんだが、奇跡はきっとそういう風に起こるんだろう。ああ、映画というのは認識を伝えることが出来るのだ‥‥。▲