12.テレーズ追撃_ソドムの市早わかり2_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch

12.テレーズ追撃

『ボストン絞殺魔』
グランギニョール
心霊捜査
十字架攻撃
『怪人マブゼの挑戦』 
冒険活劇
ここからが映画第二部であり、それを告げるかのようにテレーズの復讐のテーマが流れる‥‥。私は第一部・第二部とか前編・後編に分かれている映画が好きだ。それとは銘打ってないが、『戦場にかける橋』はウィリアム・ホールデンがパラシュート降下する場面から明らかに第二部だ。ただ第二部になっただけで無性にワクワクするので、私は8ミリ時代の『ハーケンクロイツの男』もわずか30分の映画だが、無理やり途中から第二部にしたのだ。低予算だけど何となく大作に見える。『ソドム』が目指したのはそれだ。ただ長いから第二部がついてくる『キル・ビル』とはえらい違いだ。それにくどいようだが、私が『キル・ビル2』を見たのは撮影が終わってからだ‥‥。

『ボストン絞殺魔』

 マチルダ心霊研究所を撮影したビルにはたまたま運搬用の両開きのエレベータが付いていて、私とキャメラの木暮は見るなり、「おお、『ボストン絞殺魔』だ」と、シナリオにない場面を即興で撮ってしまった。結果、『ボストン絞殺魔』とはまるで違うことをやっていて、しかも前の場面とまるでつながっていないのだが、録音技師の小宮さんは「いや、こういう精神は正しい」と力強く言ってくれた。テレーズが紛れもない霊視者であることは、初めてここで台詞で語られる。よく考えたら、水木しげるの漫画に同じような場面があった。デパートのあるはずのない4階にエレベーターがついてしまうという話だったが、そのときもエレベーター・ガールはちょうど背中を向けて恐ろしいことをつぶやくのだ。蛇吉の後ろにいつも立ってる二人とは誰のことか、それは彼の前世が示す通りだ。


 テレーズを迎えるマチルダの立ち上がり方は、私はすごく気に入ってる。悪女はこういう風に立ち上がらないと。『メトロポリス』のブリギッテ・ヘルム(実はロボット)がせり上がりの舞台で奈落からヌーッと持ち上がってくる感じだ。


グランギニョール

 ソドム一味の第2アジトとなったこの病院も製作、山川が見つけてきた。私はもう面倒くさいからユーロスペースの制作室で撮ろうとしてたのだけど、「いや、高橋さん、一応見た方がいいですよ」と説得されて出かけたら、そこは素晴らしくグランギニョールな空間だった。グランギニョールとはつまり、犯罪の現場写真がそうであるように、まっとうであったはずの事物が、ふいに本来のあり方とはまるで違う、見世物小屋性を露わにする、そのヤバさのことだ。松村博士の狂気の生体実験はここで行われたに違いないし、この場所のおかげで、近藤が泣きくれる娘の両親をマジック・ミラー越しに見つめる人でなしシーンも撮れたのだ。近藤のどう見ても行き当たりバッタリの実験のおかげで、足下に累々と横たわる犠牲者たちは、あのヒヤリとした薬品臭の漂う床の上だからこそ猟奇味をおびて引き立つ。蛇吉の背後でふいに開くドアも、この空間が呼び寄せた趣向だ。そして倒れた蛇吉は三脚にぶつかりキャメラが揺れた。このとき私は初めて、『アブラハム渓谷』の、猫をフレームの外に放り投げたら、たぶんぶつかったのだろう、キャメラが揺れたショットをそのまま使った精神が、理屈ではなく体で判った気がした。まあ、悔しいけど、あっちのキャメラの揺れ方の方がより意味がない分、過激なんだが‥‥。


 そうだ。安里の『猫目小僧』の手術室もここで撮った。狭い空間で無理やり撮ったのがかえって力になったと思う。


心霊捜査

 私は犯罪捜査に霊能者が関わるのが好きだ。日本の警察はあまりやらないが、欧米ではけっこう霊能者が捜査に駆り出されたりして、私は羨ましくてならない。まあ、日本のテレビ局は「ミッシング・チルドレン」物でさかんに霊能者たちを緊急来日させているが‥‥。あるいはこれは名探偵物の一つの変形バージョンなのかも知れない。捜査現場に一体何なのだ、あんたという人がフラリと現れ、常人には気づかぬことをズバズバ言い当ててゆく。あれは何度見ても痛快だ。誰もが一度はやってみたいと思ってるに違いない。故に名探偵物は人々の憧れに支えられて不滅なのだ。誰もがやりたいことをやってみせれば、客は文句を言わないのだ。


 考えてみれば『発狂する唇』の「霊的逆探知」も一種の心霊捜査ではある‥‥。しかし私は自分でやると何でいつも身も蓋もない方向へ行くのだろうか。今回の円卓の場面も、本物の霊能者テレーズ対インチキ霊媒師マチルダという具合に、心霊捜査は何ともいびつな形をとって現れ出た。たぶんここには、フライシャーの『悪魔の棲む家PART3』冒頭の降霊術のイカサマが暴かれる場面がはるかに反響し、ごちゃ混ぜになっているのだ。偽物の前に本物が現れるという、こういう素晴らしい設定をやるときは、普通もっと物語の流れを整理し、丁寧に描いてゆくべきだろうし、小嶺・中原の両女優はまさにそれにふさわしい緊迫した空気を作り出してくれたのだが、私はすぐに自分でそれを破壊する。その破壊の仕掛けに私自身動揺してしまったことは、すでに「マチルダの円卓」で記した通りだ。


 今、ふと気づいたが、『ボストン絞殺魔』こそ(ああ、同じフライシャーだ)、心霊捜査をリアルに描いたものだった。何でこうつながってくるんだろうか‥‥。あれは実話だ。本当にオランダからあのようなサイコメトリーの達人が呼び寄せられたのだ。あの達人は、遅刻してきた刑事と握手を交わすなり、即座に遅刻の本当の理由を言い当てる。バカにしていた刑事は呆然とし、椅子にへたり込む。あの場面は本当に好きだ。結局、彼が霊視した人物は真犯人とは別人だったが、しかし何とも不気味なのは、その男の特徴は生活の細部まで霊視と一致し、いつこの男が殺人鬼となっていても少しもおかしくなかったことだ。あるいは霊視者の回路は、我々の知り得ない、いくつものあり得た世界とつながっていたのだろうか‥‥。


十字架攻撃

 十字架ほど強度なすり込みの怖さを感じさせるものはない。あれは後ろめたさのイコンだ‥‥。ナチがキリスト教以前の古代からハーケンクロイツを持ち出さねば「新秩序」と銘打てなかったほど、十字架は強力無比なのだ。以前、黒沢(清)さんと吸血鬼について話していたとき、いったいあの十字架という弱点は何だろうかと議論になった。日光に弱いというのは実に明快であり、決定的だ。だが、あの十字架は、確かに吸血鬼はひるむのだが、時々、ううッとうめいて手で払いのけたりしようとする。「何だ、勇気を出せば、触れるんじゃないか」と黒沢さんはえらく不満そうだった。まあ、言われてみればそうだ。それにフーパーの『死霊伝説』ではそもそも十字架をかざす人の信仰心が大事、みたいな新解釈も持ち込まれていた(確か、原作もそうだったが)。こうなるとドンドン話はややこしくなる。しかし、それほどまでに欧米人はこの十字架なるものと戦っていたのだ。そしてそれが吸血鬼の物語に仮託される‥‥。


 韓国映画を見ていて、ふとうらやましくなるのは、ここには紛れもないキリスト教の風土が漂っているということだ。韓国ならば、おそらく吸血鬼の映画は撮れる。そんな風土は隠れキリシタンぐらいしかない我が国において、堂々と十字架を出すのはけっこう勇気のいることだ。で、考えついたのは影だ。ソドムは『発狂する唇』の吸血鬼同様、十字架をかざされてもビクともしない。しかし、それは相手の信仰心がどうこうというややこしい話ではなく、単に見えないからだ。盲なんだから。この上なく明快である。だが十字架のフォルムが、まさにフォルムとして、つまり影として肉体に落ちたとき、ソドムは焼かれのたうつ。ああ、影というのは何と不思議な、いくら見つめても見飽きないものだろうか。ドライヤーの『吸血鬼』はあの影の描写だけで見る者の度肝を抜いたのだし、それに『スウィート・ホーム』の主題も影だ。あのタイトル・シーンは影絵遊びから始まる、素晴らしいものだった。しかし私がやると、江戸川乱歩の『影男』のような何処か馬鹿馬鹿しいものになるのだな。ビルの壁面にヌッと現れ出る巨大な手の影、その影にとらわれたように身動きできなくなる美女‥‥、子供心にもどうかと思ったが、しかし忘れ難い、あの無理やりな見世物っぽさこそが私の血肉となっているのだ。


 テレーズが十字架を構えるショットは、予告編にも使われているが、これは田中憲(『妖怪人間ベム』の漫画版作者)の描いた漫画版『吸血鬼ドラキュラ』のヘルシング教授を忠実に再現しようとしたものだ。そうだ、燭台をガチッ!と組み合わせるのもヘルシング教授とっさの機転である。この漫画ははるか少年の日に読んだきり、もはや手元にないが、私にはそもそものハマーの映画よりも、田中憲の漫画の方が眼に焼き付いている。で、こんな感じなんだけどと、下手くそなスケッチを新谷に渡したら、新谷は読んでないはずなのにドンピシャの絵コンテを仕上げてきた。おお、これだ。ヘルシング教授はこんな風にギラつく陽光を背負っていたんだ‥‥。


 ちなみに田中憲が描く『妖怪人間ベム』のベロは安里そっくりである。アニメ版に似てると言われたらきっと怒ると思うが、漫画版を見たら本人も驚くはずだ。私も驚いたのだ。で、中原翔子がベラで‥‥。実は中原翔子は安里を発見して以来、恐ろしい計画を立てているという‥‥。

『怪人マブゼの挑戦』

S4号、大九焼殺の場面でもちょっと触れたが、この映画は『怪人マブゼ博士』と同じくらい『ソドム』に重大な影を落としている。ラングが西ドイツ帰国後に撮った『マブゼの千の眼』以降、シリーズ化されたマブゼ物の一本で、撮ったのはドイツのガイ・ハミルトン、ハラルト・ラインルだ。この映画は公開当時、佐藤重臣や種村季弘が絶賛したことで知られているが、長らく見る機会がなく、私は種村季弘の文章を繰り返し読んでは、妄想を膨らましたものだ。妄想するというのは大事だ‥‥。しかし、ついにフィルムを借り出して目の当たりにしたこの映画は、かかる妄想の前にまったく色あせることのない傑作だった。で、いったい何処がどう影響を受けているかというと、近藤の行き当たりバッタリの実験の犠牲者、柴野淳に受け継がれているのだ。イヤホンからの指令でにわかに凶暴化する男という。もっともちょっとドン・シーゲルの『テレフォン』も混ざっているが。ともかく、このアイデアはさらにクライマックスへと引き継がれる‥‥。


 柴野淳は、受け身の練習をさせたら、いったいどうすれば人間にそんな倒れ方が出来るのかまったく理解できない動きをし、かえって危険だったので受け身を諦めた男だ。だが、ここでのアクションは見事だった。本当に器用なのか不器用なのか判らない‥‥、そういう人が私の周囲には多いのだが。柴野は『ソドム』の後の現場で死にかけた。名は伏せるがある恐ろしい人物の思いつきのせいで‥‥。運転していた車はスクラップと化したが、まるで『レモ・第一の挑戦』のように本人はかすり傷一つなく、警官は「何であんた生きてるの」と訝しんだという。あわや『ソドム』が遺作となるところであった‥‥。

冒険活劇

 テレーズが車に飛び移るアクションは、これまた江戸川乱歩の遠い記憶であり、確か小林少年か誰かが車の後ろにへばりつく、そういうあり得ない状態の挿絵が眼に焼き付いていたのだ。あり得ないことだが、これはかつての冒険活劇で繰り返し描かれた光景だ。しかし、少し前の話だが、新幹線に飛び移ってそのまま走り去ってしまったサラリーマンが実際にいた。何が起こるか本当に判らない。ちぎれるようにはためく彼のネクタイが眼に見えるようだ‥‥。あれは空撮で撮りたかった。


 ここで写真を使ったのは、新谷尚之との往復書簡(「幽霊のリアル」)で書いた通りだ。テレーズは幽霊ではないが、いや、映画に写っている人はそもそも不吉だという精神でこの映画は貫かれている。本当はまったく同じことを、8ミリ時代に『ハーケンクロイツの男』の続編でやろうとしていたのだ。そのとき、車にへばりつくのは主演の高橋実だった。今は映画批評家だが。高橋実の顔を小嶺麗奈に切り替えるのはけっこう抵抗があった。まったく夢にも思わないことを私はしていた‥‥。


 心霊研究所に戻ったテレーズには、ダイイング・メッセージが待っていた。判って貰えただろうか。死ぬ間際、正気に戻った柴野は、秘密書類を指さして事切れたのだ。あれは忍者の死に方だ。確か『子連れ狼』にもそんなのがあった。金田龍之介が演じた毒殺魔阿部怪異の女忍者がジッと拝一刀の立ち去った方角を指さして。無惨で悲しい場面であった。どうして柴野がそんなことをするのか。人はいよいよギリギリのとき、あり得ない虚構へとジャンプしたりするのだ。


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