およそ尋常ではないシナリオの書き方をしたにもかかわらず、この映画のテーマを語る場面がちょうど物語の真ん中にくるとは、自分で言うのも何だが、身についた技術としか言いようがない‥‥。私はいつもミッド・ポイントなどまるで意識せずにシナリオを書くのだが、うまくいったときは必ず真ん中にテーマを語る場面が来るのだ。書き終えて初めて、真ん中の頁を開いて、ああ、これがテーマだったのかと気づくといった具合に。しかしこのシナリオは本当にうまく行ってるのだろうか‥‥。
「両婦(ふため)地獄」の存在は「怒りの日」で記した通り、高田衛先生の著書で知ったわけだが、このいわゆる近世地獄絵を模写してくれたのは、新谷尚之だ。小さなダンボールの板でブロックのように分解でき、簡単に組み立てられるまさにこれまたトンチ美術だったのだが、この辺はいずれ新谷本人に解説して貰えると有り難い。まあ、地獄絵どころか、地獄絵が出現する地蔵堂そのものを彼は全部作ったわけで、まさかこんな大事になるとは、私の読みの甘さで、彼はしばらくダンボールの山の中に埋もれて暮らしていた。
「両婦地獄」はしばしば「二女狂(ふためくるい)地獄」とも呼ばれ、二人の女に二股かけた男が墜ちる地獄ともされるが、それは言ってみれば通りのいい解釈であって、その実相は、女故に墜ちる女地獄の恐ろしさにある。その恐ろしさを唱道して回るのが、吉行由実扮する熊野比丘尼という尼僧であって、彼女は市郎の母、典子とはまったく別人だが、何故か息子の手で眼に醤油をさされて失明したという具合に、ほとんど観客に判らないレベルで時空が何重にも歪んでいる。そして熊野比丘尼とは傍らのゴザが暗示している通り、売春を生業とする最下層の民でもあったのだ‥‥。
「熊野比丘尼は地獄の躰相を絵にして、掛図にして絵解きして女子供をたらしている。かの不産女地獄、両婦地獄は、そう簡単に説明しない。女子供たちは、そこを聞きたがりて所望すると、百二十文の灯明銭をくれるなら絵解きをすると言う。女たちがそれではと、数珠袋の底をたたいて金を出すと、また血の池地獄、針の山地獄については、別に金を集めてから説明する」(高田衛『お岩と伊右衛門 「四谷怪談」の深層』より)
ああ、これは私がしている商売と同じだ‥‥。しかし、何よりも恐ろしいのは、高田氏が指摘している通り、女が女の口から、女であることの恐ろしさ悲しさ、そして待ち受けているおぞましい運命を聞くということだ。それで、それでと好奇心に駆られ、銭を差し出しながら。だが、この痛ましさこそが娯楽の姿なのだ‥‥。
かくして安里はまったく時空の歪んだままのススキが原で、母親殺しを代行する。八王子の見捨てられたような宅地造成地は、このときだけ、幾世紀にも渡って繰り返されたに違いない六部殺しの原野とつながっているかに思えた。もっともここで安里が口にするのは『翔べ!必殺うらごろし』の市原悦子の有名な台詞なのだが。息をひきとる吉行由実の最期の吐息は絶妙で、録音技師の小宮さんはおおッとうなった。「やっとくたばった」感がするよね、と私は佐々木浩久のようなヒドイことを口走っていた。▲