「マブゼの遺言」に何が記されていたかについては、すでに松村博士のコーナー(「犯罪の支配」)で触れたとおりだ。あれは渋谷教授が訳したものを私が「超訳」してしまったものなのだが、今度「映画秘宝」から出る犯罪本に引用されてしまうらしい。ああいういいかげんなものが世の中に出回るというのも考え物だ‥‥。やはりここは厳密なテキスト・クリティックがあってしかるべきだ。というわけで、近々、渋谷教授が乱入し、ドイツ語原文を提示した上で、実際はどのようになっているか、解説してくれることになったので期待して欲しい。これは貴重な証言だ‥‥。▲
金縛り
眠っていた松村博士は魔法陣で何を見たのか。いったい何が起こって彼はお筆先状態となり、ドクトル松村となるのか。ここはこの映画で最も重要な転換点の一つなのだが、あまり考えない方がいいと思ったのだ。むしろ無意識が告げるままにした方がいいと。というのもこの場面のモティーフになっているのは金縛りの体験だからだ。あれは、考え得ないことを考える領域だ‥‥。むろん、半覚醒時の幻視として説明できるものであっても、それ故にこそ脳の波長がどこか別のところに合ってしまってるわけで、それは本当に恐ろしいものが侵入してくる、おそらくは決して体験し得ない瞬間と最も近似的な領域であるように私には思えてならないのだ。ラヴクラフトが幻視したのもこのようなものだろうし、私も今まで幾度も、あり得ないような、描写不可能な建造物に覆われた無人の都市の上を飛行したことがあるのだ。いや、都市の上と言ったが、その都市には上も下もない‥‥。
しかしもっと恐ろしいのは、つい間違った好奇心で眼を見開いてしまったときで、眼に飛び込んできたのは、あるときは、壁にかけた上着がひとりでに動き出す様子だったり、またあるときは、天井の闇いっぱいにベビーベッドの上に吊すガラガラのような巨大なヤツがグルグル回転していたりする。その先には何本もの出刃包丁がぶら下がっていた。こういうとき私は身も蓋もなく悲鳴を上げた。だから松村博士の悲鳴は私のなのだ。
しかし私は金縛りをリアルに描写しようとは思わなかった。それはすでに小中千昭と鶴田法男が試みている。だからそうではない何かを、無意識が告げる何かを私はやろうとした。この辺のリアルをめぐるスタンスについては、新谷尚之との往復書簡(「幽霊のリアル」)に書いてある。で、その結果出てきたのは、スタッフが「グンゼ隊」と呼んだ人々だった。彼らは全員グンゼを着ていた。もちろん私がそうしろと言ったからだが‥‥。もっとも松村はグンゼ隊を見て悲鳴を上げるのではない。本当に恐ろしいものが侵入してくるのはその後だ。おそらくはそれが松村に「マブゼの遺言」を吹き込んだのだ。▲
『女豹の博士』
松村博士の狂気の生体実験の原型となったのは、この橘外男のあたかも実話のごとくに書かれた小説だ。これは牧逸馬の『世界怪奇実話』と同じくらい面白い、凄い小説なのだ。私はこれを少年時代にまず漫画化で読み、涙にくれながら子供の脳みそをいじくり回す「女豹」と呼ばれた女医の姿が忘れられなくなった。彼女は脳障害を患った弟を治療したい一心で凄まじい苦学の果てに脳外科の専門医となり、ある大富豪から息子の脳手術を依頼されるまでに出世するのだが、彼女はその手術の最中に突如、あり得ない部位へとメスを向ける誘惑に抗しきれなくなり、患者の脳を切り刻んでしまう。
彼女には障害を治療する唯一の方法が判りかけていたのだ。それを確認する手段が生体実験しかないとき、彼女は一線を越えるしかなかった。世界中の障害者を救うためなら、悪魔の実験も許されるという彼女の論理はもちろん狂っている。だがその狂い方はあまりにも切実で涙なくしては読めない‥‥。窮極の善への意志が真逆へと振り切れ、カタストロフを呼び起こす。このような行動様態を「天使主義」というのだがそうだが、つまりそれは天上界では素晴らしいイデアであったものが、地上に降ろしたトタン、醜悪きわまりないものに化すという暗黒劇のプロットなのだ。それは私を魅了して止まないこの世のカラクリだ‥‥。
だから松村博士はあくまでも博愛の人、正義の人でなくてはならない。そしてそれ故に最悪なのだ。ここからナチまではあと一歩であり、政治が生み出す暗黒には常にこの天使主義が見え隠れする。松村ははじめは何故かインディアン役でキャスティングされていたが、それはインディアンの顔は寡黙に正義を訴えているように見えるからだ。彼はキャメラの前に立ったトタン、眼が澄み、その輪郭はすがすがしいものとなる。そんな顔立ちの男がまずは新聞紙面の写真として登場し、それを包囲する活字が彼を怪物に仕立て上げる。新聞とはそのような構造で成り立っており、私たちが犯罪者の写真に見入ってしまうのは、それがいつ自分の写真と差し替えられてもおかしくないという構造に気づいているからなのだ。
描かれることはなかったが、おそらく松村博士には救うべき兄弟がいたのだ。しかしそれではキャサリンと同じだ‥‥。私はプロットを詰め込みすぎている。だが、この映画はそういうことを平然と受け流し、たった一枚の字幕ですましてしまおうという精神で作られたのだ。▲
乳母車
テレーズがキャサリンを幻視する場面には、どうしても乳母車が欲しかった。それも今時のお洒落な乳母車ではなく、「オデッサの階段」に出てくるようなヤツじゃなきゃいやだと言ったら、本当に思いきりそういうのが用意された。写るのはホンの一瞬だったが。何で銃撃があると乳母車なんだろうか。そういえば、『フレンチ・コネクション』にも確かそんな場面が‥‥。赤ん坊の泣き声は重要だった。テレーズはそんなことどうでもいいように弾丸を詰め替えているが、しかし本当は聞いているのだ。あれは賽の河原の、地獄の呼び声だ。我々が赤ん坊の泣き声に言いようもないかきむしられるような疚しさを覚えるのはそれ故に違いない。そしてテレーズはキャサリンの見えない手を握る‥‥。
ちなみにここに駆けつけてくる蛇吉への芝居の注文は「無駄にカッコよく」だった。次の映画秘宝でグラビアを飾るマチルダのコンセプトは「無駄にエロティックに」だそうだ▲