04.墓石と荒野_ソドムの市早わかり2_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch

04.墓石と荒野

恐怖新聞
サイレント映画
そば屋のカツ丼
 
 
この映画は荒野にポツンと立つ墓標から始まる。何故そうしたかったのだろうか。むろん『許されざる者』といった高尚な画面が念頭にあったはずはない。第一、この映画はスタンダード・サイズだ。私は何となくヴィスタ・サイズにも逆らいたかったのだ‥‥。


 たぶん、私はあからさまに「和」な墓標とマカロニ的な荒野の混淆をしてみたかったのだ。それは香港映画じゃないかと言われればそれまでだが、そういえば私は中国人たちが撮る、どう見ても引き過ぎな、国土の広さを自慢しているとしか思えないロング・ショットに嫉妬し続けていた。それで8ミリ時代からドーンと引く習慣が身についてしまったのだ。それに今思いついたが、荒野といえばパゾリーニ ではないか。やはりこの映画にはパゾリーニが影を落としていたのだ。もっとも我々はパゾリーニと同じ火山国に暮らしながら、そのような場所には行けず、八王子の空き地で撮ったのだが‥‥。


 だが、それでよかったのだ。黒澤明は真冬に真夏のシーンを撮るのを好んだというが(白い息が出ないように口に氷を含ませたりしたのだ)、そうした捏造の必死さこそが画面に写って欲しいものなのだ。八王子の空き地のむき出しの赤土のような大地は素晴らしかった。街を歩いているとちょっとどうかと思う扮装のソドム一味を、荒野は大らかに受け入れてくれた。ああ、神話は、虚構は、こういう場所にこそ舞い降りるのだと私は思った。きっと『処女ゲバゲバ』にもこういうことが起こったに違いない。あれはチャンと御殿場の自衛隊演習地の辺りでロケしているんだが‥‥。


 それにしても、テレーズの唐突な行為はあまりにも『荒野のダッチワイフ』に似ていないだろうか。そんな気はまるでなかったのだが、ドンドン似てくるので本当に困ったのだ。復讐者は仇敵の墓すら鞭打つという、中国の故事にならったまでだったのだが。


 なお、荒野では、ソドムの悪業の一つとして旅人を生き埋めにするというシーンが初めは考えられていた。しかし、そんなことをしたら、助監督の安里が「死ぬ」(比喩としてではなく)と思ったので、止めた(撮影後、『キルビル2』を見て、本当にやらなくてよかったと思った。あの生き埋めの場面は1、2を通して最良の場面のように思える)。かくして荒野での寂寥感漂う六部殺しのニュアンスは、安里による尼僧殺しの場面に反映された。



恐怖新聞

 
 ふいにバサバサッと飛んでくる新聞紙は紛れもなく『恐怖新聞』である。とっくに起こったことを報じているだけだが‥‥。「しんぶ〜ん」と声を入れようか迷ったがさすがにもはや誰にも判らないと思って止めた。しかし、鶴田法男の新作『予言』は『恐怖新聞』が原作で、やはり「しんぶ〜ん」の声は入ってなかった。入れようとしても、スタッフに止められたと思う。くそお、だったらこっちでやっておくのだった。


サイレント映画

 空に浮かぶ兄(黄少年)の遺影は、コッポラの『ドラキュラ』を意識したものだ。いや、別にこういう手法はコッポラが発明したわけではなく、ただ長い間、誰もが使うのを止めてきたのをコッポラは意図的にやってのけたのだ。それはつまり、彼がトーキーでありながら、『ドラキュラ』をサイレント的想像力で作ろうとしたということで、その考え方は『ソドム』に受け継がれている。『ソドム』の随所にはサイレント的な画面や手法が登場しているはずだ。18世紀パートの腰元二人が鞭打たれる場面のオーバーラップはあれも今時やらない手法だが、クリステンセンの『魔女』に大いに触発された描写だ。ちなみにこの映画の魔女たちが空を飛翔する場面の特撮は素晴らしい。もの凄く単純なことをやってるだけなんだが、圧倒的に力強い。


 そんなわけで、私は何だかんだ言いながら、コッポラと馬が合うのかも知れない。『闇の奥』の映画化を決意して、目も当てられない混乱に陥ったるさまは、映画人の一つの夢だ。もっとも18世紀パートで書き忘れたが、冒頭のソドム城の花嫁と俎渡海市兵衛が見つめ合う場面は『ドラキュラ』オープニングへの私なりの批判である。引き裂かれるべき運命にあるゲーリー・オルドマンとウィノナ・ライダーがあんなりあっさりとツー・ショットの画面に収まって、板付きの芝居をしていいものだろうか。やはりヒーローとヒロインはとにかく王宮というのは広いんだから、グワッと切り返しで歩み寄ってきて欲しい。ソ連版の『ハムレット』なら贅沢にそうやってるはずだ。それを私たちはミニチュア・セットと美学校の無理やりなカッティングで敢行したのである。


そば屋のカツ丼

 私はカツ丼が好きだ。それもトンカツ専門店のではなく、そば屋のカツ丼が。取調室恒例のカツ丼食いは(渡辺護の大久保清を描いた映画に素晴らしいカツ丼一気食いショットがあった)、近所のそば屋からとられたものに相違ない気配が漂うから、食欲をそそるのだ。私がよく出かけるそば屋も警察署のそばにある‥‥。しかし、私が食い物をおいしそうに撮れたかというとちょっと自信がない。こういうショットは新谷尚之が撮った方がもっと切実なものになったはずだ(彼は鈴木清順の、女性はきれいに食べ物はおいしそうに撮れという言葉を座右の銘にしている)。私はカツ丼好きにもかかわらず、実は体の根っこの部分でかかる「生」の表出を嫌悪しているのではないか。私が描きたいのは飢えた人間であって、食うことそのものの歓びではないのかも知れない。しかし確か、グリフィスのある映画には、飢餓の淵にいた家族が久々に飯にありつくとき、全身で踊るように歓びを表現する、涙なくして見られぬショットがあった。ちなみに私はラーメンも好きだ。ラーメン専門店はすぐに飽きてしまうが、ごく普通の中華料理屋のラーメンは時として無性に食べたくなる。


 荒野をさまよった果てのソドム一味結成のプロセスは言うまでもなく「桃太郎」がベースになっている。私と新谷は繰り返し繰り返し、このような原型的な物語に回帰しながら物語のトバ口をつかもうとした。下層プロレタリアートの結束のベースにあるものを、地べたの視線から一気に捉えるために。私にはソドム一味のさすらいは時には三蔵法師の一行のように、あるいは巡礼団のようにも見えた。荒野の試練を経た者たちには、単にヒロイックなだけのアウトローを超えた、民衆的基盤が、素朴な力強さが与えられるのだ。荒野で棺を引きずるソドムの姿は、単に『続・荒野の用心棒』を踏まえたものではない。あれはむしろ苦行という神話的なテーマを扱っているのだ、一応。しかして、あの棺がキャスター付きであることに気づかれたろうか。そしてカツ丼二杯で仲間が出来たトタン、苦行は手下に任される。そういう真面目に苦行などしない、少しでも楽をしようというまるで反省をしない合理性にも、私は民衆の力強さを感じる。


 そば屋での殺戮は私はひどく気に入っている。殺陣としてどうこういう以前に、「何が何でも金は払わん」という姿勢は社会への根源的な反逆だ。この姿勢がやがて「M作戦」へと発展する‥‥。便所から現れたマチルダは、まことに間の悪い犠牲者然と出てくるが(その作りは歌舞伎町の最下層にいる女、である)、立ちこめる死臭に上気し、まさに因果は巡る、ソドムに忠誠を誓う。彼女は自身の才能に、自分が何を求めていたかに翻然と気づいたのだ。そのエロティシズムは中原翔子だからこそ出せたと思う。

03.血の婚礼   05.逆探知!