『魔鬼雨』は‥‥、一度見たら忘れられない映画だ。いや、そもそも公開当時、新聞の広告で雨に焼かれ溶ける人々の姿を見ただけで、もはや決定的なイメージが棲みついてしまう映画だ。映画にはそういうことが出来るのだ。一瞬のイメージだけで、理非を超えてすべてを凝縮したようなものを伝えることが。だが、『魔鬼雨』が決定的であったのは、単に1本の映画の力だけではない。あれが生まれて来るには、そしてあれと決定的な出会いを人々がしてしまうためには、先行する様々な力の働きが必要だったのだ。それはつまり、「雨が襲ってくる」ということだ。人々は『魔鬼雨』以前に、より根源的な次元で「雨」に対する恐怖を植え付けられていた。酸性雨とか放射能雨とかの理屈がくっつくはるか以前に、いや、むしろそうした理屈こそは、人類の無意識が呼び寄せたものだと言えるくらいに根深い何かが‥‥。その起源が何であるのか、人々はいつから「雨」を恐れだしたのか‥‥。確たることは何も言えないが、たとえば異常な集中豪雨に見舞われた地域では、人々は屋根を打つ雨音を聞くうちに、ある瞬間、これがかつて経験したこともない音だと気づくらしいのだ。このまま家に居続けることが、何の安全も保証しないということを直覚するプロセスは、結果としての被害の程度はおくとしても、どんな地震や雷よりもはるかに恐ろしい認識の体験のように思える。
作り手たちはこのような民衆に根ざす恐怖に、意図的であれ無意識であれ形を与えてしまうのだ。フィリップ・カウフマン 版の『ボディ・スナッチャー 』がそうであったし、特に忘れ難いのは「世界中で一斉に雨が降っている」という秀逸なアイデアを描いた小室孝太郎の漫画『ワースト』だ。だが、私は少年時代に、それが『ワースト』以前であったかどうか記憶があやふやなのだが、やはり世界中に雨が降り注ぐ短篇漫画を読んだことがあるのだ。その漫画には、雨に濡れて帰ってきた母親が台所で絶叫しながら化け物に変身してゆくという、『ワースト』以上に絶望的、終末的な場面があり、むしろ私の「雨」恐怖を決定づけたのはこちらではないかとすら思えてくるのだが。
そして古来より雨は霊的な符帳でもあるのだ。『オードリー・ローズ』の雨は紛れもなく霊的なものだし、あのアンソニー・ホプキンスが転生した娘をつけ回す一連の場面の雨が『リング』にも降っているし、それは『ザ・リング』にも降り続けていた。わざわざ全米でも最も降雨量の多い都市が舞台に選ばれて。洋の東西を問わず、「霊」と「水」は親和的だ。その解釈は様々にあるだろうが、重要なのは、「雨」なり「水」なり「音」なりを恐水症患者が見たように撮るということだ。モノクロ映像なら「水」の物質的粒子に迫るという手がある。『飢餓海峡』の海はそのような粒子からなる水塊のうねりが捉えられていた。だがカラーではどうだろうか。『タイタニック』の水はいくらそこにドライアイスのような煙を漂わせても少しも怖く見えない。『オードリー・ローズ』の雨は本当に冷え冷えと恨めしげで、すべてを霊的磁場へと引き込もうとしていた。しかし、これは狙って出来るものなのだろうか。私の乏しい体験から言えば、映画は不確定性原理のように狙いをあざ笑う。思うに、たとえば鈴木清順のような人は、そうした不確定性原理の操り方を徹底した人工性の中でつかんでいるように見える。
ふと思い出したが、昔、酒井法子
が交通安全を呼びかける政府公報があった。雨の中でたたずみ、傘をさした彼女が視聴者に語りかけてくるのだが、それはあの世から語りかけているようにしか見えなかった。作り手の誰もそんなことを目指していたはずはないのだが。つまり何かの拍子でピントが合ってしまったとき、それは写るのだ。私はそれを「才能」と呼ぶことに逆らいたい。私はあくまでも集団の力においてそれを呼び込みたい。で、無理なら無理で、徹底した人工の世界で開き直ろうと思うのだ。▲
俎渡海市郎、10歳
主人公たちの少年時代を、半ズボンをはかせて無理やり本人たちに演じさせたのは、むろん、現代映画の常識に対する反逆であり、それが仮にギャグと解釈されたとしてもどうでもいいという開き直りが私にはあった。実際、少年時代の衣装合わせは爆笑の連続だったのである。ところが何とも不思議というか、戸惑ったのは、いざ撮影が始まってみると、もはやスタッフたちはそこにいるズラ姿の少年市郎を見ても、ごく自然な存在として受け流し始めていたのだ。さんざんくだらないことをやり続けたソドム撮影隊ならではの感覚麻痺かとそのときは思ったものだが、何というか、いざ試写が始まっても、人々はごく自然にこの不自然きわまりない事態を受け流しているように見える。観客のフィクションのリアリティとは実は思いのほか広く、『ソドム』はそれを切り開くことに成功したのだろうか‥‥。もの凄く都合よく解釈すればそういうことになるが、実際にはいかなる事態がが進行しているのか私はひどく不安だ‥‥。まあ、仮にこれが「これでいいのだ」という肯定的な反応であったとしても、メジャー映画で同じことをやったら、いったいどういうことになるのか、空恐ろしくさえあるが、そもそもそんな必然があるのかという気もする‥‥。
浦井崇の実話通りヒドイ目に会う黄君は、美学校スターシステムの中でも飛び抜けて「犠牲者」の顔をした人物として知られている。何かの虐殺写真の中に紛れ込んでいてもまったく違和感のないような「殺され」顔というか。『アメリカ刑事』ではチョムスキーの本とともに壮烈に散って貰ったが、今回の死体役では微妙な眼鏡のズレ方に私は繊細にこだわった。あの眼鏡のズレた陰惨な顔は、私にとって忘れ難い浜慎二の漫画『悪霊車』に登場する亡霊の眼鏡のズレ方なのだ。
キャサリンの宮田亜紀も『アメリカ刑事』のネグリジェ姿のまま出演して貰った。ネグリジェの袖のあたりは、衣装の半田さんにお願いして、『妖婆 死棺の呪い』っぽく加工して貰ったが。▲
美術、山本の暴走で奇形説もあった市郎の頭部。
そもそもサイズが合わず却下 。
霊安室
霊安室の根本の照明は、ギョッとするほどラング的なショットを生み出した。あの引きの画で、市郎と典子の前にたたずむ遺族たちは幽霊のようだ‥‥。私は画面に対して決してフェティッシュになってはならないと思っているが、あのショットは本当に予想外に撮れてしまったのだ。
それにしても、あのもの凄い眼でにらむ黄君の母親役、秋本奈緒実に対して、私は何でまた市郎に「イーヴル・アーイズ(邪眼)」などとつぶやかせてみたくなったのだろうか。8ミリ時代から、私は「イッツ・アラーイヴ」とか、そういうことを言わせないと気が済まない、何かあり得ない破壊的な台詞が書きたくてたまらなくなるのだ。まあ、そもそもテレーズとかキャサリンとかマチルダとか、そういうネーミングからしてあり得ないのだが、こういうネーミングも何処か自然に受け止められている節があって、観客のキャパシティの広さなのか、ただ呆れているだけなのか、ちょっと不安になってくる。確かなことは、中原昌也の指摘通り、世界市場をまったく意識してなかったということだ‥‥。
秋本さんは私の世代にとって、「オールナイト・フジ」のマドンナである。そんな人と一緒にいることが私には何か非現実的にすら思えたのだが、しかし塩田明彦の『明日吹く風』の秋本さんのコメディエンヌぶりは素晴らしく、市郎の「イーヴル・アーイズ」に「そりゃあ、怒るわな」と誰もが思う、絶妙のリアクションをしてくれたのであった。▲
便所での誓い
ここからが本当に「魔鬼雨の夜」なのだが、あまり多くは語るまい。私も、このシークエンスのアイデアを一緒に練り上げた新谷尚之も、ここでの二人のやり取りをひどく愛してしまっているのだ。というのも、そもそもこの場面は浦井崇と宮田亜紀が生み出すに違いないメロドラマの磁場に吸い寄せられるように生まれてきたからだ。ここでは霊的なるものは、子供時代の誰もが経験する甘美な夜の怖さとして二人をむしろ親和的に包み込む。そしてこのメロドラマ性こそが二人の悲劇を盛り上げるのだと。雨音の中でヌッと突き出されるキャサリンの手は明らかに霊的だ。そしてそれは親和的なるものの裂け目であり、キャサリンの地獄を告げている。▲