01.怒りの日_ソドムの市早わかり2_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch

01.怒りの日

『お岩と伊右衛門 「四谷怪談」の深層』(高田衛著)
井戸と地蔵和讃
二匹の蛇
福島音響
地獄歌 
 怒りの日(ディアス・イレ)は言うまでもなく最後の審判の歌で、私の好きな賛美歌の一つだ。『シャイニング』の、おそらくベルリオーズの『幻想交響楽』をベースにした使い方はクラシック然としすぎてあまり好きではない。やはりドライヤーの『怒りの日』やベルイマンの『第七の封印』の、素朴で中世的な使い方がいい。パゾリーニが自作の『ソドムの市』で使った「典型的なファシスト音楽」と呼んだ『カルミナ・ブラーナ』のように。もっとも何でファシスト音楽なのか、私はよく判ってないのだが。


 パゾリーニの音楽の使い方は自主映画みたいで好きだ。『奇跡の丘』に堂々と『アレクサンドル・ネフスキー』を使ったり。普通、ああいうことはしない。じゃあ、タランティーノはどうなんだと言われるとすごく困る。何かが根本的に間違ってる気がするが、しかしいきなり「修羅の華」が流れて、どうしようもなく胸打たれた人たちは大勢いる。私もその一人だ‥‥。


 関係ないが、ドン・シャープの『怒りの日』は忘れがたい映画だ。エリザベス女王爆殺を企む孤独な復讐者、ロッド・スタイガーは素晴らしい。タイトルをつけたのは日本の配給会社だが、やはりこのタイトルだから見に行きたくなる。『ソドム』とはまるで関係ないが、こういうところに書いておかないと忘れ去れてしまいそうな気がしたのだ。

『お岩と伊右衛門 「四谷怪談」の深層』(高田衛著)

 すでにホラー番長のコーナーで、「それぞれの時代の幽霊観はその時代の地獄観に連関する」という高田衛氏の研究には言及しているが、この高田衛氏の著作は『ソドムの市』の重要なベースとなったものの一つだ。この映画を貫くモティーフである近世地獄絵「両婦(ふため)地獄」を私はこの本で初めて知ったし、18世紀パートの中軸となるエピソードは高田氏がこの本の中で紹介している井原西鶴の怪談集『懐硯(ふところすずり』の一篇をもとにしている。本当に身の毛のよだつ物語である。こういうことは本来は映画のパンフレットに公式に書くべきことなのだが、ホラー番長には作品ごとのパンフがないので、このサイトで書くことにする。


 高田衛氏の著作は『江戸の悪魔祓師』を私も以前に読んでいて、その「怪談累が淵」のもとになった実際の事件の詳細にゾッとしたものだが、不勉強にして高田氏がこれほど根源的な「四谷怪談」論文を発表し続けていたとは知らなかった。私の周囲には黒沢清をはじめ、熱烈な「四谷怪談」ファンが大勢いて、何でこれほど比較を絶して「四谷怪談」には言いようもない怖さが働いてしまうのか、夢中になって語り合った時期があったのだが、4年前、私が病院から退院してきて、ホッと一息ついていたところに、洋泉社からこの本が送られてきたのだ。いまだにもって何で送られてきたかは謎だ。「映画秘宝」スタッフが編集したとは到底思えない本なのだが‥‥。とにかく私はこの本をひもといて、かつて私たちが夢中になって話し合ったことが、より詳細にはるかに深く考察されていたことに驚いたのだ‥‥。「四谷怪談」は本当に怖い。もし映画なり舞台なりで、自分が関わることになったとしたら、絶対に本当に関わっていいかどうかためらいが走る、そういう他に類例を見ない異常な領域にいるフィクションなのである。正直いって、こうして今、パソコンで「お岩」とか「伊右衛門」とか書くことすら何か起こりそうで嫌だ。何も起きないで欲しい。実は私は以前、四谷のお岩稲荷に取材に行って、写真を撮った帰り道、急に右目が痛くなり、翌朝にはお岩のように腫れあがっていたことがあるのだ。


 ところで高田氏はこの本の「口上」で、実に不気味な言葉を記している。「予言しておくが、二十一世紀は男の幽霊が主流になる(日本では)」。無意識に刷り込まれそうな怖い言葉だ。高田氏は現代の如何なる闇を見つめているのか‥‥


井戸と地蔵和讃

 やっぱり井戸は出てきてしまった。井戸は井原西鶴の原作にもないし、私もはじめは『リング』ですでにやった手を繰り返すのに抵抗があったのだが、新谷尚之がやっぱり井戸でしょうと特撮のプランまで立ててくるからやったのだ。だがひとたびやり出すと井戸は窓から吹き込む雪をバッチリと引き立て、これはもう井戸底の二人を歌わせるしかないと「地蔵和讃」のアイデアが出てきた。『ソドム』の現場はこんな具合に複数のキャッチ・ボールによってネタがネタを呼び込み、誰でもないものへと膨らんでいったのである。


 「地蔵和讃」は何種類もあるが、最も有名なのはこの映画でも使っている「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため」で、内田吐夢の『大菩薩峠』でも歌われている。渡辺護の『おんな地獄唄尺八弁天』(脚本・大和屋竺)の地獄唄も節回しは違うがこの和讃を唱えている。小嶺麗奈と宮田亜紀がか細い声で「地蔵和讃」を練習する光景は(この映画はオール・アフレコだったのだ)、言いしれぬ哀感の迫るものであった。


 なお、俎渡海市兵衛が鏡を覗く場面は、紛れもなく『夜半歌声』の影響下にある。「四谷怪談」の髪梳きの場がそうであるように、鏡を見ることは恐怖劇の重要な転換点だ。


二匹の蛇

高田衛氏の研究でも「蛇」は中心的なテーマになっているが、私も二人の女の呪いの化身たる蛇にはこだわり、この映画では最もリアリティを追求して、本物を二匹連れてきたのである。というのも、私は子供の頃、友人と蛇を殺しすぎて(それも本当にひどい殺し方をしたのだ‥‥)、以来、蛇を見ると、どうしようもない後ろめたさに駆られるのである。だからどうしても蛇は出したかったのだが、やはり悪業の報いだろうか、蛇はまったく言うことを聞いてくれず、ジッと動かないままか、腹から出てきたエイリアンのように瞬時に逃げようとするか、どっちかなのであった。床に叩きつけ、死なない程度にのたうち回らせてやろうかいと、だんだんかつての悪業に引き戻されそうな自分がいるのが怖かった。で、とうとう本当に蛇は逃げ出してしまったのだ。撮影をしていた美学校ロビーの何処かに。一瞬、何食わぬ顔で学校には黙っていようと悪の誘惑に駆られたことを白状せねばなるまい。むろん、すぐさま思い直し、スタッフの必死の捜索で無事発見したからこんなことも書けるのだが。そうでなければ、今も蛇は美学校の何処かをはい回り、ある日事務局の女性が気づいて引きつけを起こしかねない騒動になり、主要業務たる試写室機能は停止、学校を経営破綻に導いたかも知れないのだ‥‥。考えただけで恐ろしい。強運の『ソドム』の現場であったが、蛇だけにはかなわなかった。


福島音響

『ソドム』の音の仕上げを担当したのは業界でも老舗のスタジオ、福島音響だった。私は床からはえてくる仕込み杖の効果音に、『悪魔くん』の魔法陣から巨大な手がヌーッと出てくる、その前後の音をイメージしていたのだが、そんな音があろうはずもない、いや、そもそもこの現代では到底理解されない異様な音をどう説明すればいいか、とにかくビデオを持ち込んで聞いて貰ったのだ。録音技師の小宮さんは絶句して社長を振り返り、「社長、これ判ります?」。すると社長は「ああ、判る」と驚くべきことに『悪魔くん』のSE集をそのまま出してきた。『悪魔くん』は当時、第10話まで福島音響で仕上げられていたのだ‥‥。『ソドム』の強運はポスプロにまでついて回ったのだった。というわけで、仕込み杖がはえる音は『悪魔くん』のまんまです。ちなみに小宮さんによると、『悪魔くん』のSE集を使ったのは『ソドム』が初めてだという。

地獄歌

タイトル・シーンは初めからこう撮ろうと決めていた。私にとって重要な「監視」の主題であり、ラングの遺作(『マブゼの千の眼』)で闇の中で監視モニターを見つめていたあの視線であり、謎の老人を演じた岩淵達治先生は私にとって限りなくマブゼなのだ。私は見ていないのだが、ラングが亡命中にフランスで撮った『リリオム』には、あの世へ行った男が、現世での所業をすべて記録フィルムで見せられる場面があるという。ああ、それこそ私がいつもとらわれている感覚の領域なのだ。幼い時分は、この感覚がもっと鮮明で、時折、耳鳴りのような気配がやってきて、視界がうっすらと霧につつまれたようになり、眼の前の光景がすべてスクリーンに投影されているように、フリッカーのまたたきとともに見える、そんな不思議な感覚が時々訪れたのだ。その瞬間、この世のすべてのカラクリが判ったような気がする‥‥。あの不思議な感覚は5、6歳を最後に二度とやって来なくなってしまった。


 だから私には何かが映写されているという感覚が常につきまとうのだ。『リング』の呪いのビデオに注文した音も、映写機のリールの回転音がイメージだ。長嶌寛幸から素晴らしい「地獄歌」が上がってきて、木暮のキャメラがグワッと映写機のリールに迫る、そこに二人の歌声が流れたとき、私はもう何も思い残すことはない危うい気分にすら駆られた‥‥。あと、細かいことだが、ぶっ飛んでくるメイン・タイトルは尊敬するナイジェル・ニールの『クォーターマス2』の影響です。ナイジェル・ニールは、ジミー・サングスターと並んで私が深い影響を受けた脚本家だ。


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