ソドムより_ソドムの市早わかり1_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch





 『ソドムの市』は‥‥、パゾリーニとはあまり関係がない。いや、パゾリーニの『ソドムの市』やサドの原作は私(高橋)にとって恐ろしく重要なものだし、私はシナリオ執筆時、繰り返しサドのことは考えたが、パゾリーニについてまで考える余裕はとてもなかった。たとえばあの三脚に固定しない謎の撮り方について、どうしてあれほど直接的な画が撮れるのかについて。だが、それでも私は『アラビアンナイト』の悪魔が男を抱えて砂漠を飛ぶ、あの無理やりな特撮はどうしてもやりたくて、ソドムとキャサリンが空を飛ぶ場面を何とかねじ込もうとしたんだが、いざ撮影が始まってるみると、そんなことやってられる場合ではなかったのだ。 
しかし、サドが考え出したあの物語はあまりに魅惑的で極限的だ。私はいつか、まったく別の形でパゾリーニの『ソドムの市』にもう一度立ち返りたいと思っている。もっともこの素晴らしいタイトルを考え出したのは、当時の日本の配給会社の人々であって、パゾリーニの原題は『サロまたはソドムの120日』というのである。「サロ」とは大戦末期、ムッソリーニが傀儡政権の首都とした忌まわしい歴史を持つ北イタリアの町の名前だ‥‥。 


しかしこのタイトルは私にとって、10年前に思いついた単なる駄洒落に過ぎなかったのである。この普通あり得ないようなタイトルで長篇映画を撮るきっかけになったのは、一つには特撮担当の新谷尚之とのやりとりであったし、二人がこの映画の制作をめぐって何を話し合ってきたかについては、いずれこのサイトの「もっと地下映画」のコーナーで往復書簡の形で明らかにしていきたいと思っている。だが、そもそもの、最重要のきっかけはといえば、それは何となく勝新に似ているように見える浦井崇という男がいたからなのだ。この駄洒落でしかないタイトル・ロールを本当に体現する男がそこにいたという‥‥。 
『ソドムの市』にはいくつもの発動力たる原典があり、それはたとえばマブゼ映画であり、また高田衛氏の著作「お岩と伊右衛門」であったりする。マブゼ映画についてはすでにドクトル松村のコーナー(「犯罪の支配」)で言及しているし「お岩と伊右衛門」については『ソドムの市』早わかり?で語ることになるだろう。だが、ここではこのあり得ないタイトルを呼び込んでしまった張本人について語らねばならない。それに『ソドム』のいくつかのエピソードは浦井崇の実話に基づいているのだ。


 何となく勝新に似ている浦井崇はまた実に様々な存在にイメージがダブる不思議な人物で、『ソドム』に先駆けて主演に起用した『アメリカ刑事』では和田浩治に似ているとしか思えなかったのだが、編集をしているうちにまったく似ていないことが明らかになったりするから困る。『ソドム』撮影時にも浦井崇は勝新からドンドン遠ざかっていき始め、やがてスタッフの間では、やや名前を出すのをはばかる人物に似はじめていることがヒソヒソとささやかれた。私はその指摘が単に容姿だけでなく、ある符号が働いていることに気づきいささかゾッとした。盲目であったことや、最終的に彼がやろうとしていたことが‥‥。私はそういうことをまったく考えていなかったのだが。ちなみにデルモンテ平山氏は『ソドム』を見ながら、藤井隆が出ていると途中まで思い込んでいたというし、また、西山洋市はホラー番長の1本『運命人間』撮影中に主演の豊原功輔が浦井崇に似て見えて仕方がないという現象に悩まされたという。こうなると何か怪談めいてくる。


 この映画が追求したテーマの一つは「悪」であった。そして浦井崇演じるソドムが果たして「悪」足り得たかどうか、「業」に突き動かされるソドムは果たして「悪」と呼び得るのかどうか。これは浦井崇の演技がどうこう以前の、「悪」というテーマの困難を私に突きつけてきた。少なくともソドムはマブゼ的な確信犯の「悪」ではない。それはむしろ岩淵達治扮する「謎の老人」の側に色濃く漂う気配だ。しかし私は一方で、浦井崇という人物がマブゼ的な確信犯とはまったく違った意味でのある種の純粋悪、いわば無意識の殺人鬼のごとき「存在自体が迷惑」を体現していることに気づき始めていた。『ソドム』のテーマとはそこにあったのだろうか。ともかく、少年時代、わざわざギザギザの尖った方を上にして缶を蹴り飛ばし(その方がかっこいいと彼は思ったらしい)、友人の顔面に突き刺したのは彼だ。母親からちょっと小言を言われたのを根に持ち、母親がうたた寝するのを待って、眼に醤油を差したのは彼だ。そしてある女性を巴投げ(というかネプ投げ)して、ある取り返しのつかない事態を引き起こしたのは彼だ。こういうことはすべて映画の中に取り込まれている。これらは信じ難いが実話だったのだ(ついでに言うと、劇用車として友人から借りたベンツをハイオクではなくレギュラー満タンにして以後使用不能にしてしまったのも彼である)。


 「存在自体が迷惑」、これこそが『ソドム』撮影中に私が発見した「悪」と通底するテーマであった。私は「映画秘宝」(9月21日発売)の座談で、今度青山真治の新作に出演する中原昌也に全部立ち位置を間違えてまるでつながらないようにしたらどうか、中原昌也を起用する以上、それぐらいの破壊行為を青山真治は無意識に欲望しているはずだとそそのかしたりしたのだが、実はこれは浦井崇が『ソドム』の現場でやったことなのだ。カットごとではなくテイクごとに、浦井崇の立ち位置や顔の向きはまったく本人の意識せざるところで千変万化し、ついでに台詞も間違えるのだった。むろん私もキャメラの木暮もそれに気づき、テイクごとに初めの立ち位置に戻るよう微修正を繰り返したのだが、いざキャメラを回そうとすると、浦井崇の身体はそれら微修正をすべて無に帰していた‥‥。要するに我々はこれこそがこの映画が求めていた主人公なんだと理解してゆくしかなかった。このつながらないソドムを前にして編集の石谷が気が狂いそうになったことは言うまでもない。


 あるいは浦井崇と私の間には大いなる行き違いがあったのかも知れない。浦井崇はしばしば得意げに「高橋さん、僕はついに役者に目覚めましたよ」と言ってみたり、スタッフに「頼むから今日だけは主役扱いしてくれ」と懇願したりしていたが、ここで大きくすれ違っているのは、私は一度として浦井崇を「役者」としてキャスティングしたのではないということだった。私は浦井崇という「存在」を撮りたかったのだ。そしてそれは見事に「存在自体が迷惑」として画面に捉えられたと思う。それなりに名のなるプロの役者で、いったい誰がこの奇妙なキャラクターを体現できたというのだろうか。私にはさっぱり思いつかないのだった。浦井崇はアマチュアでありながら、長尺の映画を支え抜いた希有の「器」だったのである。






ソドム
浦井崇(うらい・たかし)


1970年6月1日、大阪府生まれ。吉本総合芸能学院(NSC)8期生。92年に現・構成 作家 の矢部正と「やるじゃねぇかーず」を結成。解散後、大山英雄と「マニアック」 を結 成するが、これも解散。以降ピンで活動。98年に芸人を廃業し、同年10月、映画 美学 校2期入学。出演作は『大いなる幻影』(99年・黒沢清監督)など。『アメリカ刑 事』(03年・高橋洋監督)では主役を演じた。
また、自ら短編作品『もの凄いキック』(03年)、『女は風林火山』(04年)も制作している。

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