わしを誰やと思ってんねん!_ソドムの市早わかり1_映画: 高橋洋の『ソドムの市』 | CineBunch


わしを誰やと思ってんねん!

 

クライマックスに至る前に『ソドムの市』の世界から退場した渋谷教授の絶筆。 (ラストのチャンバラ場面は、ほんのちょっとアンコール出演しただけやったしなァ...)


渋谷教授が命がけで鳩に託したメッセージとは何だったのか。
 新谷尚之の胃袋に消えてしまったその内容がついに明らかになった。
 それは高橋がノリで「超訳」して流布させてしまった「犯罪の支配」に対する、ドイツ語原文に基づく厳密なテキスト・クリティックであった。こういうものを警察に届けても何の意味もなかったと思うが、おそらくは長期の拘禁状態で精神が錯乱を来していたと思われる。文章の調子もどことなく変で、惜しくも意味不明のまま途絶しているが、マブゼ理論をめぐる重要文献であることは間違いない。今後も様々な解釈を呼びそうな波乱のテキストを公開する。

 

Herrschaft des Verbrechens   犯罪の支配



≪翻訳≫ 
  人間の魂のもっとも奥底の部分を、究明しがたく一見無意味な犯罪で震えあがらせなければならない。犯罪は何人にも益をなさず、不安と恐怖を広めることだけを唯一の目的とする。なぜなら犯罪の最終的な意味とは、限りなき犯罪の支配を打ち立て、滅亡を運命づけられたこの世界で破壊された理想を基礎として、完全なる不安定と無政府状態を作り出すことだからである。人間が犯罪のテロルによって支配され、恐怖と驚嘆によって正気を失うとき、そしてカオスが至高の掟へと高められるとき、犯罪の支配のときがおとずれる。


 これが最近『映画の魔』の中に採録され、高橋洋氏の偏見に基づく解釈で巷に出回ってしまった「犯罪の支配」の原文に忠実な訳である。映画『マブゼ博士の遺言』で、マブゼの幽霊がバウム博士に語りかける言葉だ。高橋氏がはっきりと原典の言葉を変えてしまっているのは、ちょうど中ほどにある、「滅亡を運命付けられたこの世界で破壊された理想を基礎として」という件である。彼はこの部分を、この世界で「否定された価値観」とした。その具体的な発露である犯罪や蛮行は、たしかに安寧な秩序を求める人間の世界から完全に締め出され、否定されるべきものだろう。


犯罪の支配を唱えるものが、そんな秩序の支配力や永続性を信じているはずがないことは、私だって承知している。しかしたとえ虚構であると知りつつも、既存の力としての秩序に対抗し、否定する身振りは、ある意味で「健全な」革命家精神が共鳴しているように思われなくもない。なぜなら否定された側に立つことは、やはりどこかヒロイックな行為でありうるからだ。(この私の解釈に対して、高橋氏から、否定された価値観によってなされる行為は絶対にヒロイックにはなりえないのだとコメントをいただいた。それについては、もう少し補足せねばならないだろう。ここで問題は、行為の内容がヒロイックであるかどうかではなく、ある支配的な価値観に対する否定を宣言することが、どこか体制倒壊的な革命家の身振りを取ってしまうのではないのかということだ。つまり主体性を否定すると、そのワンランク上にさらに強力な主体が回帰してしまう堂々廻りのようなものである。)


そもそもの問題点は、倫理や常識を外れたおぞましい行為や価値観が、根元的に秩序と対立するわけではないということだ。むしろマブゼのように悪を高らかに宣言するかのごとき身振りが、実は秩序を万人の規範たらしめんとする身振りと、実はきわめて近い関係にある。かの『啓蒙の弁証法』が叙述する啓蒙的理性の暗黒は、まさに2つの世界戦争とナチスを生み出した20世紀前半のドイツの血塗られた歴史あってこそのものだろう。「犯罪の支配」の原文の恐ろしさは、底知れないカオスと混乱が、秩序を否定するところから生起するのではなく、まさに人間の理性の延長線上に起こってしまうこと、サド侯爵ですら啓蒙的理性の正統的な継承者だと見なされる点にある。つまりすでに理想そのものの拠り所が砕けてしまっているのだ。



また秩序がもたらす排除は、決して秩序の普遍性や永続性を保証するものではない。むしろその逆に、絶えず排除という行為が繰り返されることによって、否定されるべき価値観そのものが再生産される。その意味で秩序の絶対的な外部は存在しない。何かわからぬ絶対的なものが訪れるとき、それが現われる瞬間に絶対的なものは消えてしまっている。秩序の外を志向するマブゼの棲家である地下世界ですら、秩序の内部でしかないというジレンマである。(だがこの超越論的解釈を、秩序対反秩序という場のテリトリー争いだと理解されてしまうと、ここで私の主張する意味はわかってもらえないだろう。つまりこうした対立の思考をおこなうこと自体が、秩序を生み出すパフォーマンスとなってしまうのだ)


この原典のテクストが示している価値の混沌は、そこから別次元に立って客観的に観察することを完全に拒絶する。にもかかわらず混沌をその只中で冷徹に見極めようとすれば、どうしてもそれを世界の最終的な状態であると見なすことはできない。なぜなら「犯罪の支配」が新たなる秩序へと成り代わるとき、当然そこから次なる排除が生み出され、次なる対立が組織されるだろうからである。理性と野蛮が、人間と自然が、秩序と犯罪が、実は二項対立でもなんでもないという事実こそが「犯罪の支配」の「破壊された理想」という言葉の示唆する、(誤解を恐れずに言えば)ユートピア的な価値なのかもしれない。


では破壊された理想とは何か?それこそドクトル松村のような人物を止むに止まれぬ行動に駆り立てる、ある意味で≪絶対的に≫正しい倫理観と信念ではないのか。『マブゼの遺言』が作られた時代は、まさにナチスがドイツで政権を樹立する直前の時期だった。まさに価値観の混沌が、そのままドイツ、ひいては中部ヨーロッパ全土の秩序に成り代わろうとする時代の前夜である。この映画を作った監督フリッツ・ラングを始め、スタッフやキャストたちに、クラカウアー流のナチス先取りの非難を浴びせることが果たして適切なのかは、実際のところよくわからない。でもこの映画の犯罪一味(当然ソドム一味とも遥かに共鳴するわけだが)が手を染めている行為は、ナチスが国民の信望を得ようと行ったテロ活動と表裏一体分かつことが出来ない。それは時代の病という言い方でも生ぬるいもので、何か恐るべき力が、偶々その時代と場所を生きた全ての創作活動に刻印されてしまったとしかいいようがない。つまりラングのマブゼは、客観的な価値判断の拠り所がないために危険極まりないのだ。(だが一方ラングの映画には、いつも宗教的で超越的裁きが現前する余地が残っている。例えば『M』の最後に、殺人者をお縄にする手が厳粛に差し出されるところなど。だがその倫理的価値観ですら「破壊された」ものだと考えたならどうだろう?)まさにあらゆる価値観の揺らぐ危険さは、高橋氏の『ソドムの市』の世界に、2つの回路を通って流れ込んでいるように見える。


1つはもちろんドクトル松村においてである。この役を演じた松村浩行氏は、ベルトルト・ブレヒトがナチ政権誕生前夜のドイツで執筆した戯曲『イエスマン』『ノーマン』を映画化した人物である。名前ばかり有名なこの戯曲のテーマは、危機に瀕した共同体を救うために、「ヒロイックな」行動を起こした少年の自己犠牲を肯定するか、否定するかという問いを投げかける教育劇だ。これを映画化するにあたって松村氏は、おそらく普通の演出家ならブレヒトに敬意を表して絶対やらない暴挙とも言える解釈をおこなった。すなわちこの戯曲が提起した全体主義への問いを、最終的にはそれを合理的に肯定する文脈へと組み替えてしまったのである。しかもひたすらブレヒトのテクストに従うことによって。とはいえ、このブレヒト解釈が伝えていることは、アンチ・ファシズムの作家として知られるブレヒトの中にも、やはり恐るべき悪が抗いがたく浸透していたという、考えてみれば意外でもなんでもない事実を示すに過ぎないのかもしれない。いずれにせよ、この冗談のような展開を最大限の真剣さと愚直さでもたらしてしまうドクトル松村にこそ、「破壊された理想」という言葉の深層に潜む決定的なパズルの一片が握られていると思えて仕方がない。『ソドムの市』では涙とともに辞世の句を残して、『M』のローレよろしく裁きの手に落ちてしまったが、本当はこんな大衆向けの結末で収まるはずがないのだ。



そしてもう1つの回路は、誰あろう主役のソドムである。すでに高橋氏の文章であまりにドラマティックに紹介されてきた主演・浦井崇氏に言及するとき、ぜひとも引き合いに出したい人物がいる。やはりナチ前夜のドイツで生まれた長編小説『ベルリン・アレクサンダー広場』の主人公フランツ・ビーバーコップである。嫉妬のあまり愛人を撲殺し、刑務所で服役した過去を持ちながら、社会不安の蔓延する大都市ベルリンの只中でまっとうに行きようとする、それこそ愚直さの塊のような男である。秩序を愛するビーバーコップは、自ら望んで犯罪に手を染めるニヒリストではない。しかし彼は愛や友情を根拠に、ときには容赦なく他者に危害を加えてしまう。その反面、彼は人間性を信じるが故に裏切られ、無残に右腕を失ってしまう。優しさと善意が、確信犯的な悪よりもずっと残虐かつ卑劣な悪を呼び寄せてしまう。それがこの人物の最大の矛盾なのだ。原作には描かれていないが、ビーバーコップの「あまりに人間的な」闘いは、その後あっさりとナチスの体制に飲み込まれて終わってしまうだろう。それこそが、『ベルリン・アレクサンダー広場』を戦後に映画化したライナー・ヴェルナー・ファスビンダーによるシニカルな結論だった。ビーバーコップ(ビーバー並の脳みそ)は、その存在自体が「破壊された理想」と人間性のネガとしての「悪」が表裏一体となったパズルの一片だ。


ビーバーコップとソドムの共通点は一見すると目立たない。だがビーバーコップが秩序の中へと招き入れられない理由を、ソドムに振りかかった因果応報との並行関係で読んでみたらどうだろう。ソドムの悪行には理由がある。ソドムの悪への意志にしても、因果という人知を超えた力が彼に憑依したものだ。にもかかわらず彼には人間的にシンパシーを感じさせる何かがある。それは当然浦井崇氏という人物が照射するものでもあるだろう。そしてその人を惹き付けずにおかない「人間性」こそが、『ソドムの市』が解き放とうとしつつ、結局は辿りつけなかった地獄の最後の構成要素なのではないか。罪を自覚できない罪深さ、しかしそれをいかに糾弾できるのか、途方に暮れるより他にない。ただしこの結論は、単に人間の「性悪説」を主張するものではない...
(以下判読不明)







渋谷教授

渋谷哲也


1965年生まれ。兵庫県出身。広島大学と学習院大学大学院で独文専攻。現在関東圏のいくつかの大学でドイツ語非常勤講師。たまに映画についての講義も担当。著書に『いちばんやさしいドイツ語会話入門』(池田書店)と『ベルリンのモダンガール』(共著・三修社)。現在ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの戯曲『ブレーメンの自由』を翻訳中。だれかこれを映画化してみようという人がいないかと探しています。