高橋洋長編初監督作『ソドムの市』の公式HPです。
![]() この頁はドクトル松村を演じた松村浩行のために用意されたものだが、タイトルも含め、いきなり私(高橋)が乗っ取ってしまった感じだ‥‥。というのもそもそも、『ソドムの市』はおよそ20年前、マブゼ映画として構想されたからなのだ。 その頃、私は『夜は千の眼を持つ』というマブゼ映画を撮っていたのだが(主演は西山洋市、当時は洋一)、その続篇として準備していたのが、だんだん話の規模が大きくなり、周囲からも「まだマブゼをやる気ですか」などと呆れられ、結局そのままになってしまった、そうした一切を今回の映画では、ことごとくドクトル松村のパートに注ぎ込んだのである。だから松村は、ソドムやテレーズやキャサリン、他にも主役が何人もいるようなこの奇妙な映画のいわば影の主役ともいうべき存在であり、私の分身でもあるのだ。松村の台詞はほとんどが私が言いたかったことだ。 しかし、この頁は松村浩行のものだ。だから彼が自分の監督作のことや新作のことなど、何でも自由に書き込んでもらってけっこうなのだ‥‥。 いや、もう少し正確に言い直さなくてはならない。 松村ははじめこの映画にインディアンの役で出るはずだったのだ。というのも彼の顔はインディアンの顔として素晴らしくフォトジェニックであるに違いないからなのだが、やがてこの映画にはインディアンが出ないことが判り、その時突如として、20年前の野望が甦り、『牛乳屋フランケン』の松村の顔はマッド・サイエンティストの顔として素晴らしくフォトジェニックであったことを俄然思い出し、こうして『ソドム』は松村によってマブゼを呼び込まれ、鶴屋南北劇とドイツ社会派恐怖の混合という奇妙な構造を持つに至ったのだ。そして南北劇とはそもそもがゴッタ煮なのだから、全然大丈夫であったのだ。 ところでマブゼ映画とは何であろうか? それは以下の理論に従って構築された映画のことである。 おそらくは松村の狂気のメモに書き記されていたのもこの理論だったのだ。
私はこの理論を、もう20年以上前、『怪人マブゼ博士』(1932年 原題『マブゼ博士の遺言』)を見ている時に聞いたのだ。それはマブゼの亡霊が主人公の教授に語りかけ、憑依しようとする場面だったのだが、それが何よりも空恐ろしい仕掛けが施されているように思えたのは、見ている私たちまでが、主人公の教授と同じようにマブゼに乗り移られた気になるからだった。というのも、この教授は、何か超常的な力の働きに幻惑されてマブゼの言葉を受け入れるのではなく、ただジッと耳を傾けるうちに、その言葉が他のいかなる価値観よりも根源的でそれ故「正しい」ことに気づいたから受け入れるしかなくなったのだ‥‥。 私もまったく同じ状態になった。そして以降、私はこの理論に基づいて映画を作り続けてきたのだ。マブゼ映画においては常に憑依が起こる。それは私の松村への憑依であり、謎の老人(岩淵達治教授)の憑依であり、そしてさらにもっと得体の知れぬ何ものかの憑依なのだ‥‥。いったい松村があの恐ろしい絶叫をあげた時、何がやって来たのだろうか?
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