近藤聖治は安里麻里同様、俳優ではない。スタッフだ。そして『ソドム』はスタッフが役者を兼ねて全然構わない映画だったのである。実際、プロの現場でもそうなのだが、映画のスタッフには今すぐキャメラの前に立たせたい人が大勢いるのだ‥‥。そこには何というか、本当に地べたにうずくまり、そこからこの世を見つめている人のリアリティが漂っている。今やいささか抽象的な言葉になってしまった「下層プロレタリアート」をまさに体現しているような。ソドムの手下たちとはそのような人々でなくてはならなかったのだ。でなければマブゼの手下たちの、あの社会から捨て去られた、つまりインテリでもマルクス主義者でもないけれど、世の中の仕組みを根本から疑わざるを得ない認識を、知識としてではなく、生活者として獲得しているニュアンスには迫れないと思ったのだ。
ここにはあるいは多少のパゾリーニの影響があるのかも知れない。彼の『アッカトーネ』などの諸作は本当に下層プロレタリアートと共に生き、彼らを「直接的に」捉えることで撮られたのだ‥‥。
近藤の衣装は、衣装ではない。彼はいつもあの格好で歩いており、そのまま現場に来て貰っただけなのだ。安里のドカジャンは、さすがに彼女はふだんはもう少し小ぎれいな格好をしているが、現場ではなりふり構わなくなりドカジャンを着るのだ。私はその姿がひどく気に入って、今回もドカジャンを着て貰った(ちなみに、なりふり構わなくなった女性には、何かある種の直接性が、つまり先史時代の採集生活をしていた人々はあるいはこうであったかも知れないと思わせるような、一切の歴史的経緯を無効にしてずっと生き続けてきた人間の原型がそこに表れているように思えるのだ)。
近藤は現場でアクターズ・キラーと呼ばれた。あのインパクトの強すぎる顔は他の役者とキャメラと等距離に並ばれると、芝居を破壊するのである。誰もの視線が近藤の顔の方に吸い寄せられるような不安が漂って。そんなわけで、キャメラの木暮は、近藤の顔が安全圏に入るまで奥へ奥へと下がらせるのだった。しかも近藤の顔は、あの分厚い眼鏡を外すと、髪型もあいまってか、仲間由紀恵に似ているのだ‥‥。
なお、彼のスタッフとしての役割は新谷尚之と共に特撮であった(もっとも役割といっても、『ソドム』の現場はそれがいくつにもオーバーラップする混沌たるものだったのだが)。ネタに関わることなので今は書けないが、彼はあの×××の操演を一手に引き受け‥‥、そしてあの素晴らしいラスト・シーンを作り出したのだった。
